反宗教改革
反宗教改革という言葉から想像すると、「プロテスタントの活動を潰しにかかる活動」を連想する人もいると思います。ですが、ここでいう「反宗教改革」とは、プロテスタントと敵対するというよりは、カトリック教会が自分自身を改革する運動を意味します。ルターが引き起こした宗教改革により、プロテスタントが産まれたわけですが、それに伴ってカトリックも自分自身を刷新する改革が行われました。特に代表的な事件として、イエズス会とトリエント公会議が挙げられています。
イエズス会 (Society of Jesus)
イエズス会は、日本でも知名度が高いので、名前を知っている人は多いと思います。イエズス会はまさに宗教改革の真っ最中に産声を上げました。
1534年8月15日、イグナチウス・デ・ロヨラ(43歳 以下「ロヨラ」)とその同志であるフランシスコ・ザビエル(28歳)他5名が、パリのモンマルトルの丘に集まって誓約を立てたことが、イエズス会の起りでした。
創立者であるロヨラは1491年生まれのスペイン人で、当初は軍人としての道を歩んでいました。1521年(30歳)の時、パンプロナの対フランス戦で重傷を負い、療養している最中に「黄金聖人伝」と「キリスト伝」を読んで感化され、信仰の道を歩み始めました。1522年から1523年にかけて、スペイン北東部のマンレサで隠者生活をおくるかたわら、ロヨラの主著である「霊操(霊感修行とも)」の大半を完成させていたそうです。その後、ロヨラはエルサレムに巡礼。スペインに帰国すると、バルセロナやサラマンカの大学で学び、それからパリ大学にも行きました。この時、同志らと出会い、イエズス会結成に至りました。1540年、教皇パウルス3世からイエズス会が正式に認可され、1541年にロヨラ(50歳)はイエズス会の総会長に就任しました。イエズス会以外にも、1551年にローマ学院、1552年にゲルマニクムを創立するなど、終生精力的に活動し、1556年7月31日、ローマにて死去しました(享年65歳)。
イエズス会の大きな特徴の一つが、「積極的な布教活動」です。日本には、フランシスコ・ザビエルが1549年にやって来て、キリスト教を広めたことは、小・中学校の歴史の授業でも取り上げられるので、わりと知名度が高くなっています。イエズス会は各地に宣教師を派遣しました。日本のような東アジアのみならず、インドやアフリカ沿岸部、アメリカ大陸(特に中南米)でも積極的に布教されたため、カトリックは世界各地に広まっていきました。また、ヨーロッパにおいても布教は行われましたが、特に力を入れたのが学校経営でした。1599年に発行された学事規則"Ratio studiorum"にのっとり、高等教育を一手に引き受けていたそうです。
イエズス会の組織形態
イエズス会の名称はラテン語で"Societas Jesu"で、略号はS.J.です。教皇の直下に位置して、その特別使命に直ちにこたえる奉仕の精神により、神の栄光を求めるという、軍人だったロヨラらしい戦士のような会派でした。実際、総会長をトップに頂く組織は厳しい上下関係で律されており、会士らは服従を求められました。そして、組織的に教育と指導が行われました。その様子はさながら君主制国家のようなものでした。
イエズス会 主な総会長
1541〜1556年 | イグナチウス・デ・ロヨラ |
1581〜1615年 | アクアビバ |
1687〜1705年 | ゴンザレス |
その後のイエズス会
イエズス会は長い間、カトリックの最大修道会として活躍していましたが、18世紀に一時解散させられます。その後、1814年に復活し、現在でもカトリック最大の修道会として活動しています。例えば、日本では1908年に再び布教を開始し、上智大学、六甲学院、栄光学園を経営する他、広島教区(中国地方5県)を担当しています。それぞれの学校公式ホームページにて、キリスト教及びカトリックについて説明されています。
上智大学ホームページ
六甲学院ホームページ
栄光学園ホームページ
トリエント公会議 (Council of Trent; Concilium Tridentinum)
宗教改革の動きに対抗すべく、教皇パウルス3世は北イタリアの南チロル地方の都市トリエント(ドイツ語名 Trient 英語ではTrento)で19回目となる公会議を開催しました。公会議の主な目的は、以下の2つでした。
1.プロテスタントに対するカトリックの教義を明確にする
2.カトリック教会体制の内部刷新
トリエント公会議は1545年に開幕し、その後3期にわたって開催されています。会議で主導権を握ったのはイタリア、スペインの司教達です。イタリア、スペインでは宗教改革の動きが弱かったこともあり、会議の決定事項はプロテスタントにとって非常に厳しいものとなりました。カトリックにとっては、トリエント公会議の決定事項は非常に重要なものとなり、19世紀までカトリック指導者達の判断基準となりました。毎週行われるミサへの出席は義務となり、洗礼と結婚のサクラメントが厳格に規定されるようになりました。なお、宗教改革の引き金を引いた贖宥状の販売については、終了が決まりました。
続いて、3期にわたって行われた会議の内容について。
第1期(1545-47年)
まず、カトリックの教義についての再確認が行われました。ニカイア・コンスタンチノープル信条を信仰の基礎とし、聖書についてはウルガタ訳聖書の権威を認め、原罪についての正統教義を確認しました。教会体制に関しては、説教師が独自の解釈や教えを勝手に流布することを防ぐために、司教に説教師の監督権を与えると同時に、司教にはそれぞれの任地に定住する義務を課しました。
やがて、シュマルカルデン戦争が激化したため、ボローニャに会場が移されましたが、一時中断するという形で第1期は閉幕しました。
なお、パウルス3世の公開勅書にインディオの奴隷制度に関する記載がありました。その内容は『インディオたちも本当は人間であり、…(略)…カトリックの信仰を理解する能力を持っている。さらにわれわれの情報によれば、彼らはそれを受け入れることを強く望んでいる』というものでした。奴隷制度の非人道的な性質を認めてはいるものの、その悪はキリスト教の布教によって帳消しできるのだ、と信じていたのです。これは事実上、カトリックも「(正しい教えである)キリスト教を布教する」という条件を付けながらも、奴隷制度を追認しているものでした。当時の価値観は
第2期(1551-52年)
教皇ユリウス3世により、再びトリエントにて開催されました。教義については、聖体にキリストが実在することや告解・終油に関する決議などがなされていますが、特徴的なのはドイツのプロテスタントの代表が会議に加わったことです。結果的には、両者は対立したまま話し合いは平行線をたどり、やがてドイツ国内の内乱(君主戦争)が発生したために中断となりました。
第3期(1562-63年)
教皇ピウス4世により、主にフランスのカルヴァン派を対象として第3期が始まりました。教義については、第2期で議論された聖体の秘跡に関する主張を決議し、ミサはキリストの十字架上の犠牲と本質を同じくし、死者のためにも聖者を讃えるためにも行われる、と定義付けしました。フランスのカルヴァン派の代表団が到着すると、第1期で定めた司教の定住問題について議論が紛糾しましたが、教皇使節モローネの手腕でこれを解決。さらに、枢機卿・司教の任命と職務、教区会議と管区会議の開催、司教の巡察、説教の義務などの新しい教会体制も決定しました。ピウス4世は1563年に決議を承認して閉幕。さらに、この決議を確実に実施するために枢機卿会議を設置した他、決議文の普及、ローマのカテキズムの出版、改訂版ウルガタ訳聖書の出版などが行われました。
反宗教改革 略年表
1534年 | |
8月15日 | イエズス会が結成される |
1537年 | |
| ロヨラ、ザビエルが司祭に叙階される |
1540年 | |
| イエズス会が教皇パウルス3世の認可を受ける |
1545年 | |
| トリエント公会議(第1期) 開幕 |
1547年 | |
| トリエント公会議(第1期) 閉幕 |
1549年 | |
| イエズス会のザビエルが日本に上陸し、布教を開始 |
1551年 | |
| トリエント公会議(第2期) 開幕 |
1552年 | |
| トリエント公会議(第2期) 閉幕 |
1562年 | |
| トリエント公会議(第3期) 開幕 |
1563年 | |
| トリエント公会議(第3期) 閉幕 |
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