ヘンリ8世の宗教改革
ドイツのルターや、スイスのツウィングリ、カルヴァンによる宗教改革は、考え方の違いから生まれた宗教改革ですが、イングランド(現在のイギリス。当時はまだスコットランドとも別国家扱いであり、現代の「イギリス」という国家ではなかったため、ここでは「イングランド(England)」と書きます。)では国王・ヘンリ8世の後継者と離婚問題のこじれから、宗教改革が始まりました。まずは、当事者となったヘンリ8世から見ていきましょう。
ヘンリ8世は1491年6月28日にグリニッジにて、イングランド王ヘンリ7世の次男として生まれました。兄のアーサーは1486年9月20日生まれなので、5歳違いです。アーサーは1501年にスペイン王の娘カサリン(16歳)と結婚しますが、翌年1502年4月2日に若くして病死しました(享年16歳)。そこで、次男のヘンリ8世が王位後継者となったわけです。
ヘンリ8世は父のヘンリ7世が亡くなった1509年(18歳)でイングランド王に即位し、兄に未亡人となっていたカサリン(この時24歳)と結婚しました。ヘンリ8世の治世の初期は、トーマス・ウルジーを重用することで順調に進んでいたようです。ウルジーは1473年頃にイプスウィッチで肉屋の子として生まれたそうです。その後、ウルジーは聖職者となり、1507年(34歳?)にヘンリ7世の宮廷に入ったことで政治の世界に足を踏み入れました。ヘンリ8世の治世になってから、ウルジーの手腕が認められ1511年に枢密顧問官、1514年にヨーク大司教、1515年に枢機卿・大法官に任命されました。特に大法官に就任したことにより、ウルジーは王が公式の命令を出すすべての部門を掌握するようになり、ヘンリ8世の片腕として権力を集めて外交を行い、イングランドの国際的地位を高めることに成功しました。また、イングランド王の居住したハンプトン・コートや現代イギリスの政治の中心街であるホワイトホール(日本で言う霞が関)を造営したのはウルジーです。
一方、イングランドの歴史を大きく動かした宗教改革は少しずつ歩み寄っていました。その原因は、ヘンリ8世に後継者となる男子がいなかったことです。ヘンリ8世と王妃カサリンの間には、6人の子供が生まれました。しかし、成人したのは後にイングランド女王となるメアリー(1516年2月18日 グリニッジにて誕生)だけでした。1530年、ヘンリ8世は39歳、王妃のカサリンは45歳。不可能ではありませんが、カサリンがさらに子供を産む確率はかなり低かったことでしょう。そこでヘンリ8世の目に留まったのが、カサリンの侍女であった女官のアン・ブーレンでした。アン・ブーレンはフランス駐在大使を務めていた父・トマス・ブーレンとともにフランスに滞在していましたが、帰国してからは王妃カサリンの侍女となっていました。アン・ブーレンは1507年の生まれと考えられていますので、1530年時点では23歳前後になります。ヘンリ8世はウルジーに対して教皇からカサリンとの離婚許可を取り付けるように命じますが、教皇はこれを認めようとはしませんでした。なぜならば、王妃カサリンはスペイン王カルロス1世(同時に神聖ローマ皇帝カール5世)の叔母にあたる人物です。宗教改革の嵐が吹く中、教皇とカトリック教会を支持するカール5世の不興を買うような選択を教皇がするはずもなく、さすがのウルジーも説得に失敗。理不尽なことに、反逆罪に問われて逮捕され、1530年11月29日、ヨークからロンドンに向かう途中、レスターにて病死しました(享年57?歳)。
王妃カサリンも離婚の無効を主張していましたが、1531年以降は引退生活に入ってしまいました。ヘンリ8世は、教皇の同意が得られないならば、カトリックから離脱することも辞さず、という構えで、1533年にひそかにアン・ブーレンと結婚し、1533年9月7日にはグリニッジ宮殿にて後の女王エリザベス1世を誕生します。既にカトリックに見切りをつけたヘンリ8世は、イングランド国内の教会を掌握すべく、初年度収入税法(教皇に上納していた聖職就任後初年度の収入を、以後はヘンリ8世に上納するよう定めた法律)や上告禁止法(教皇庁に対する上訴を禁止)、そして1534年11月には国王至上法(Acts of Supremacy)を発布して「イングランド国内の教会の首長は、教皇ではなく国王である(唯一最高の首長)」として、カトリックからの離脱を高らかに宣言しました。こうして、カトリックから離脱したイングランドのキリスト教は「アングリカン・チャーチ(Anglican Church 日本語訳は「イギリス国教会」)」と呼ばれ、独自の道を歩むことになりました。
1536年には小修道院解散法を制定し、年収200ポンド以下の小修道院を強引に解散させ、その所領を没収。1539年には大修道院解散法を制定し、残りの202の大修道院をこれまた強引に解散させ所領を没収しています。これらの政策はトマス・クロムウェル(後のピューリタン革命で活躍するクロムウェルの遠い親戚)が推進者となり、カトリック勢力を潰すと同時に、王室財政を改善することが目的とされたそうです。没収された修道院領の大部分は、新興勢力のジェントリ階級に売却され、これが後のイギリス富農経営の基礎となりました。
こうして、ドイツやスイスとは異なった経緯で、ヘンリ8世はイングランドの宗教改革(教皇勢力からの離脱)を進めていきました。1547年1月28日、ヘンリ8世はロンドンにて死去。享年56歳。

メアリー1世の反宗教改革
ヘンリ8世の後を継いだのは、エドワード6世でした。エドワード6世は1537年10月12日、ハンプトン宮殿にてヘンリ8世と3番目の王妃ジェーン・シーモアの間に生まれた待望の王子でした。即位した時はまだ9歳なので、とても政治ができる年ではありません。そこで、母親であるジェーンの兄・サマセット公(当時41?歳)が摂政として政権を握りました。宗教面では、1549年に礼拝統一法を発布して国教会にプロテスタントの教義取り込みを図っています。しかし、エドワード6世は生まれつき病弱であったため、1553年7月5日、グリニッジにて病死しました。享年16歳。
若くして亡くなったエドワード6世には子供はいなかったため、後継者争いが起りました。様々な勢力の思惑が交錯する中、ジェーン・グレーがわずか9日間の女王として擁立されるなどの混乱を経て、ヘンリ8世の娘であるメアリー1世(37歳)がイングランド女王に即位しました。メアリー1世は進む宗教改革に厳しく"No!"を突き付け、カトリックへの復帰政策を執ります。そもそも、メアリー1世の母親であるカサリンはスペイン王家の娘であり、宗教はもちろん新興のプロテスタントなどではなく、完全にカトリックでした。メアリー1世もその信仰を強く受け継ぎ、ヘンリ8世在世中の宗教改革にも意思を曲げずに抵抗。その報いとして様々な迫害を受ける日蔭の存在に追いやられていました。そんな時に転がり込んできた女王の地位は、メアリー1世がこれまで抱えていたであろうカトリック復活への思いを実現させる絶好の機会となったわけです。
メアリー1世は即位した翌年の1554年、スペイン皇太子フェリペ(当時27歳)との結婚を議会の反対を押し切って決定します。この結婚は、カトリック復帰政策の強化と共に、自らの権力基盤を確保するための政策だったと思われます。まず、スペインは母であるカサリンの母国です。また、皇太子フェリペはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の息子であり、後にスペイン王フェリペ2世となり、スペイン絶対王政全盛期の王として歴史に名を残した彼は、熱烈なカトリック信者であり、プロテスタントに対して尋常ではな敵意を持ち続けた人物でありました。外国からの支援の道をつけた後、メアリー1世はR・ポール枢機卿を登用し、カトリック聖職者の復帰と修道院の再建を図りました。これらの政策には反対者が多く、1554年2月にはトマス・ワイアットが反乱を起こしたりしましたが、メアリー1世はこれを鎮圧することに成功。さらに異端処罰法を復活させて、高名な聖職者を含めた300名ほどの人々を火刑に処すなどしたため、"Bloody Mary(日本語訳は「血のメアリー」「血みどろメアリー」)"と呼ばれ恐れられました。
しかし、メアリー1世の治世は間もなく終わりを告げます。フェリペと結婚したことにより、イングランドはスペインの(ハプスブルク家の)ライバルであるフランス王家と敵対することになりましたが、フランスとの戦争に敗北。大陸最後の拠点であったカレーを失い、1558年11月17日、ロンドンにて失意のうちに死去し、4年ほどの治世に幕を閉じました。享年42歳。

エリザベス1世の宗教改革
メアリー1世の後継者となったのが、エリザベス1世(25歳)でした。即位したエリザベス1世は、基本的に父であるヘンリ8世の方針を受け継ぐことを発表し、宗教面では再びイギリス国教会の整備を進めていきました。年が明けて1559年、2度目となる国王至上法にて、国王をイギリス国教会の「唯一最高の首長」から「唯一最高の統治者」という表現に変え、メアリー1世が廃止した信仰統一法を再制定しました。これにより、イギリス国教会は体制を確立し、イングランドの宗教改革はここでいったん閉幕となります。
なお、イギリスの歴史の中で重要なことは、これら宗教に関する法律が議会の承認を経て成立したことです。「議会の立法権はどの範囲にまで及ぶのか」という政治体制上の問題に、一つの答えを示す結果となりました。イギリスは、早い時期から議会の権力が他国よりも強いという特徴がありましたが、一連の宗教改革騒動の中で、その影響力をさらに高めた、と評価されています。そのため、この出来事はイギリス議会史において、現在でも重要な出来事の一つと考えられているそうです。

なお、エリザベス1世の治世はまだまだ続き、むしろこれからが彼女の治世の本番なのですが、それはまた別の機会に。

イングランドの宗教改革 略年表                            
1509年

ヘンリ8世(18)がチューダー朝イングランド王に即位
1534年
11月国王至上法を制定
1536年

小修道院解散法を制定
1539年

大修道院解散法を制定
1547年
1月28日ヘンリ8世(56)死去

エドワード6世(9)がチューダー朝イングランド王に即位
1549年

礼拝統一法 発布される
1553年
7月5日エドワード6世(16)死去
7月9日ジェーン・グレー(16)がチューダー朝イングランド女王に即位
7月17日ジェーン・グレーが廃位される

メアリー1世(37)がチューダー朝イングランド女王に即位
1554年

メアリー1世(38)がスペイン皇太子フェリペと結婚
2月トマス・ワイアットの乱
1558年
11月17日メアリー1世(42)死去

エリザベス1世がチューダー朝イングランド女王に即位
1559年

2度目の国王至上法(統一法)を制定



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