small5
「今回のテーマはベルギー独立だ。本編ではフランス革命の頃のベルギーの話はほぼ完全に省略されてしまっている。この頃はまだベルギーとして独立しておらず、オーストリア=ハプスブルク家の支配下にあったからな。無理もない。」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
small5
「さて、まずはいつもどおり年表から見ていこうか。」
年月 | ベルギーのイベント | その他のイベント |
1713〜14年 | スペイン継承戦争の講和条約・ユトレヒト条約&ラシュタット条約によって、オーストリア領となる | |
1740年 | (墺)マリア・テレジア即位 | |
1780年 | (墺)ヨーゼフ2世即位 | |
1786年 | (墺)ヨーゼフ2世が宗教寛容令を発布 | |
1789年 | 10月24日 ブラバント革命 勃発 | 7月14日 フランス革命 勃発 |
1790年 | 1月 ベルギー共和国 独立宣言 2月20日 ヨーゼフ2世死去 レオポルト2世が後継者に 12月 オーストリア軍がブリュッセルに入城 ベルギー共和国消滅 |
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1792年 | 革命フランス軍がオーストリアを破り、南ネーデルラントを占領 | |
1795年 | 革命フランスが南ネーデルラントを併合 | |
1815年 | ウィーン会議の結果、ベルギーはオランダ王国領となる | |
1817年 | 公立初等学校を設立し、教育言語はオランダ語とする | |
1819年 9月15日 |
フランデレン地方の公用語にオランダ語を指定。1823年から適用と発表 | |
1828年 | ウィレム1世の統治に反対する「同盟(ユニオニスム)」結成される | |
1830年 | ウィレム1世がオランダ語に関する勅令を白紙撤回する 8月25日 ベルギー音楽革命勃発 9月23〜26日 血の市街戦 10月4日 ベルギー独立宣言 11月〜 ロンドンで列強が会議 |
(仏)七月革命 |
1831年 | 6月4日 ベルギー議会がレオポルドをベルギー王として承認 7月 レオポルド1世が初代ベルギー国王として宣誓 |
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small5
「さて、オランダ独立戦争の章で見てきたように(参考:広がる世界・変わる世界 オランダ独立戦争)、南ネーデルラント(現在のベルギー)は宗教上の違い(カルヴァン派のオランダに対してベルギーはカトリック)を理由として別々の道を歩んできたわけだ。18世紀になると、スペイン継承戦争(参考:絶対主義国家と国王たちの戦い スペイン継承戦争)の講和条約・ユトレヒト条約&ラシュタット条約で、南ネーデルラントがスペインからオーストリアに譲渡されたことが、本編で少し触れられているくらいだな。」
big5
「スペインはフランス王家のブルボン家のものとなりました。そこで、南ネーデルラントをスペイン領からオーストリア領に変更したわけですね。南ネーデルラントはフランス・ブルボン家には渡さない、というハプスブルク家の意思を感じますね。」
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「オーストリア・ハプスブルク家の支配下で、ベルギーは比較的平穏な時を過ごしたそうだ。1740年に即位したマリア・テレジアの治世では、かなりの自治を認められていたそうだぜ。」
女帝 マリア・テレジア 制作者:Martin van Meytens (1695?1770) 制作年:1759年
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「しかし、マリア・テレジアの息子のヨーゼフ2世の治世になると、状況は一変することになります。」
ヨーゼフ2世 制作者:Anton von Maron (1733?1808) 制作年:1775年
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「ヨーゼフ2世といえば、啓蒙専制君主の一人に数えられているな。確かに従来の国王たちに比べれば、自由主義的で近代国家に相応しい政策を打ち出していったのだが、多くのベルギー人にとっては迷惑な存在だったようだぜ。それを伝えるエピソードが残されている。
1781年、ヨーゼフ2世がベルギー地方を初めて訪問することになった。国家財政のことを考えて、質素倹約に自ら努めていたヨーゼフ2世は、質素な服装でお供も一人だけしか連れていなかった。さらに、ベルギー側で用意していた歓迎会も
「真摯に徹底した調査のための訪問だ。呑み、食い、踊るために来たわけではない」
と言って欠席してしまったんだ。」
big5
「おっしゃることはまさにその通り、なんですけどね。こんなエピソードもあります。ベルギーが誇る歴史的名画の一つにヤン・ファン・エイクの「ヘントの祭壇画」があります(ヤン・ファン・エイクについてはこちらも参考に:広がる世界・変わる世界 ルネサンス期の文化)。」
ヘントの祭壇画 制作者:Jan van Eyck (circa 1390?1441) 制作年:1432年
big5
「右上に描かれているイヴが裸だ、ということでヨーゼフ2世が明らかに嫌悪感を露わにした、ということで、慌てて絵が外されたそうです。こういうところに、ヨーゼフ2世のキャラが出ていると思います。
そんなヨーゼフ2世から見ると、ベルギー人は
「ビールのことしか考えないフランス風の奴ら」
と軽蔑していたそうですね。ベルギーの伝統や習慣、特権などは時代錯誤と考えて潰しにかかることになりました。」
small5
「1786年には、村ごとに行われていた祭典を、国でまとめて年1回にしようとし、1787年には州制度を変えて9つの行政区に変更し、中央から地方総監を派遣することとした。当然、これまでほとんど自治をしていたベルギー人にとっては反発したくなる内容だ。実際、ヨーゼフ2世の改革に対してベルギー人が強く反発していることについて、ヨーゼフ2世の義兄弟であるアルベルト・カジミール(1738〜1822年)はヨーゼフ2世にこのような警告の手紙を送っている。
「最初の一人から最後の一人まで、すべての(ベルギー)国民に熱狂的愛国心が浸透している。彼らはオーストリア政府が課そうとしている法に従うつもりはなく、最後の一滴まで血を流す覚悟がある。」
こうして、1789年のフランス革命に呼応してベルギーでも革命が起こる下地ができたわけだ。」
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「そんな中、1789年7月14日にフランスでバスティーユ牢獄襲撃事件が勃発し、フランス革命が始まった。オーストリア支配に対する不平不満がたまっていたベルギーの民衆も触発され、オーストリアに対する義勇軍が組織されたんだ。これをブラバント革命と呼んでいるぜ。」
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「これに対して、ヨーゼフ2世は軍を送って鎮圧しようとしますが、そうは問屋がおろしませんでした。ルーヴェンというベルギー中部の都市にあるルーヴェン・カトリック大学が校舎の閉鎖したんです。これは、ヨーゼフ2世が出した宗教寛容令に対する反抗の意思表示でした。カトリックが多いベルギーにとっては、宗教寛容令は迷惑なものでした。プロテスタント系の大学が進出されたりしたら、たまらないからです。このように、教育機関や宗教勢力も反ヨーゼフ2世で集合して暴動に発展したため、ヨーゼフ2世はいったん軍を後退させました。」
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「オーストリア軍が後退したのを機に、年が明けた1790年1月、ベルギー全国議会が新憲法を採択して、ベルギー共和国の建国が宣言されたんだ。きっかけとなったフランスよりも先に、ベルギーの方が先に共和制国家を建国することに成功したわけだな。」
big5
「しかし、ベルギー共和国は短命に終わりました。結局はオーストリアに力でねじふせられてしまったのですが、ベルギー国内も思想の違いなどでまとまることができなかったことも原因と考えられていますね。」
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「まずベルギー共和国の内容について見ていこうか。革命によって誕生した共和国、という意味では画期的ではあったが、その内容は画期的とは言えないものだった。まず、中央政府にはほぼ権限がない。何をするのかというと、共和国としての外交と各州の利害調整が主な役割だ。なので、共和国と言ってもその内情は各州の寄り合い所帯というかんじだ。
また、政治思想もこれまでと代わり映えしなかった。フランス革命のような近代的な人権思想などは無かった。遠慮なく言わせてもらうと、オーストリア支配から脱却しただけで、それ以外は従来と同じベルギーというかんじだぜ。そのため、フォンクなど一部の政治家のように、ベルギー共和国に失望してフランスに亡命していった人もいるんだぜ。」
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「そんな短命に終わったベルギー共和国の滅亡までの経緯は以下のようになります。
1790年2月、ベルギーでは評判が悪かったヨーゼフ2世が死去。後継者は弟のレオポルド2世となりました。レオポルド2世は独立したばかりのベルギー共和国を元の木阿弥に戻すべく、ベルギー議会に交渉を開始。革命首謀者への大赦やベルギー人の要職登用を約束するなどして、ベルギー共和国を揺さぶります。さらに、オーストリア軍を再度派遣して圧力をかけました。11月25日にオーストリア軍がナミュールに到達し、12月2日にはオーストリア軍が首都・ブリュッセルに入城し、ベルギー共和国は約1年という短期間で閉幕となりました。
こうして、ベルギーの革命はあっさりと鎮圧されて、オーストリアによる支配に戻ったのですが、それも長くは続きませんでした。革命フランスの反撃が始まったからです。」
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「本編でも述べたように、革命フランスは国民を大動員して周辺国の攻撃を排除すると、今度は周辺国への逆襲を開始しました。当然、フランスに隣接しているオーストリア領ベルギーにも革命フランスの軍が攻めてきたんです。革命フランス軍の攻撃によってオーストリア軍が敗北、退却したために、1792年に南ネーデルラントは革命フランスに占領されます。そして1795年10月には南ネーデルラントを併合してしまいました。」
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「革命フランスはかなり過激な思想を持っている連中だ。その支配下に入れば、当然のようにフランス語がベルギーの公用語として強制されたわけだ。ただ、実際にフランス語を勉強して使えるようになったのは上流階級出身者くらいだったので、革命フランス支配下において、フランス語が使えるベルギー人は登用されたのだが、それ以外の民衆は蚊帳の外だ。これが、現代ベルギーにも続く「言語問題」を促進する一因となっているぜ。」
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「この状況は1815年にナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、ウィーン体制が確立するまで約20年の間続きました。一世代入れ替わるくらいの
時間があったわけですね。
その後、ウィーン会議の結果、ベルギーはオランダ領とすることが決定し、フランスからオランダに支配者が変更されることになりました。」
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「ウィーン会議の結果についての評価は、様々な学者や知識人が意見を述べているが、松尾秀哉氏はその著書『物語 ベルギーの歴史』の中で、以下のように評価している。
五大国に都合よい結果となった。イギリスは経済的に重要なアントワープをフランス支配下から解放したことで満足し、オランダは南ネーデルラント(ベルギー)を獲得したうえに、ルクセンブルク大公国を兼任した。プロイセンはオランダからドイツ連邦内の領地を多く手に入れ、ルクセンブルクはドイツ連邦に加盟することになり、守備隊が駐屯することになった。オーストリア・ロシアは、フランスとの間にオランダという緩衝国ができたので安全保障面の利点があった。
と評しているぜ。いずれにしろ、ベルギーは一時的とはいえ独立国となったのだが、結局は元の木阿弥に戻されたわけだな。」
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「さて、ウィーン体制の下でベルギーはオランダ領とされたわけですが、当時のオランダ国王はウィレム1世という王でした。」
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「ウィレム1世は「開明的専制君主」と評されており、オランダの戦後復興と近代化に努力した国王として評価されているんだ。しかし、オーストリアのヨーゼフ2世の時と同様に、ベルギーではすこぶる評判が悪かったんだぜ。」
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「ウィレム1世のベルギーに関する主な政策は以下のようになっています。
・1817年〜1820年 公立初等学校を作り、オランダ語を教育言語とする。オランダ語のみを教える学校には補助金を出す。
・1819年9月15日 ベルギー北部のフランデレン地方(英語ではフランダース"Flanders"、フランス語ではフランドル"Flandre"、オランダ語ではフランデレン"Vlaanderen"。ここでは「フランデレン」と表記)の公用語をオランダ語とし、1823年7月から適用すると発表。
というところですね。この結果、オランダ語を理解できなかった軍の士官2名が解雇、他の2名がフランス語圏のワロン地方に転属となっています。」
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「小学校を作り、国民に基本的な教育を行う、というのはたいへん近代的な政策で「開明的専制君主」の名が相応しい政策だよな。しかし、北部がオランダ語圏、南部がフランス語圏というベルギーにとって、ウィレム1世の政策は反発を招くことになった。フランス語圏の南部ワロン地方の住人はもちろん、フランデレン地方でもフランス統治時代にフランス語話者となった上流階級も反発することになった。そしてもう一つは、宗教の違いの問題だ。オランダ独立戦争の時も、オランダはカルヴァン派、ベルギーはカトリックという宗教上の違いで決別したよな。今回は、カトリック系私立学校がカルヴァン派系の公立学校が進出してくることに反対しはじめたんだ。
ベルギー人の不満の原因となったのは言語だけではない。ウィレム1世は新生オランダ王国の戦後復興のための原資として、オランダ、ベルギー共に重税を課した。また、当時の人口はオランダが約200万人、ベルギーが約325万人とベルギーの方が1.6倍も多いにも関わらず、下院の議員数は同数で、閣僚に至ってはほとんどがオランダ人、という政治的な不平等もあった。」
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「このように、ウィレム1世の統治に対してベルギー人の不平不満がたまっていきました。その結果、1828年には元々あまり仲が良くなかったベルギーの自由主義派(フランス革命の精神を尊ぶフォンクらの派閥)と保守派(カトリック教会の権威と利益を守ろうとするデル・ヌートらの派閥)が、反ウィレム1世で連携し「同盟(ユニオニスム)」を結成しています。
これに対し、ウィレム1世は反対者を逮捕・投獄して弾圧したため、両者の対立は日増しに激しくなっていきました。」
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「1830年7月、フランスで復古ブルボン王朝を倒し、オルレアン家のルイ・フィリップを新国王に立てた七月革命が勃発。ベルギーもこれに続くことになった。
8月25日、ブリュッセルの歌劇場ラ・モネ(1819年建築)で演じられたダニエル・オーベル(1782〜1871)のオペラ『ポルティチの物言わぬ嫁』を観た人々が次々と革命運動に走っていったんだ。」
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「『ポルティチの物言わぬ嫁』というオペラの内容は、スペイン人の圧政に苦しむイタリアのナポリの人々が立ち上がった、という筋書きだそうです。おそらく、オランダ支配に苦しむ自分たちベルギー人と重なったんでしょうね。革命に走る人々は爆発的に増え、新聞社や銀行、政府関連の建物を包囲しました。オペラがきっかけで始まったので音楽革命とかベルギー音楽革命とか呼ばれたりしますね。」
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「音楽革命というと、平和的なイメージがあるが、実際には武力革命でもちろん死傷者が出ているぜ。ウィレム1世は、鎮圧軍を編成して送り込み、9月23日〜26日にかけて激しい市街戦が行われた。この戦いは多数の死傷者を出したため「血の市街戦」と言われているぜ。ベルギーはこの市街戦に勝利し、10月4日には独立宣言が出されたんだ。革命勃発から約1か月半という短期間の出来事だったな。」
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「さて、これでベルギーはようやく真の独立国となったわけだが、新国家としてスタートするにはもう少し時間がかかるぜ。列強がロンドンに集まってベルギー独立問題について話し合ったロンドン会議が始まったんだ。」
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「ベルギー臨時政府の首班シャルル・ロジェ(1800〜1885年)とオランダ王ウィレム1世は国際会議による調停を提案。ロンドンで会議が行われることになりました。ウィレム1世は、保守主義であるウィーン体制のもとで、新国家独立など認められるわけがない、と考えていたようなのですが、その考えとは全く逆にイギリスのパーマストン、オーストリアのメッテルニヒ、そしてフランスもベルギー独立をあっさり認めてしまいました。」
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「ウィレム1世はさぞ驚いたことだろうな。だがそれも無理はないぜ。この頃からウィーン体制は列強の利害関係が優先されるようになり、保守主義的な体制は少しずつ瓦解していくことになるんだ。
ベルギーに関しては、独立国となるのはOKだが共和制国家はならぬ、ということでどこかからちょうどいい人物をベルギー国王として迎えることになった。ウィレム1世は、それならばと自分の息子のウィレムを推したが、当然ベルギー人は大反対だ。」
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「結局オランダ支配下に戻るのと一緒ですからね。当然の反応です。」
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「シャルル・ロジェらはフランスとの友好も考慮し、七月革命で即位したばかりのルイ・フィリップの次男であるヌムール(1814〜1896年)を希望したが、これには列強が大反対した。それでは、フランスの勢力拡大と同じだからな。」
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「結局、列強の都合でモノが決められるわけですね。」
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「ああでもない、こうでもない、という話が続き、ようやく出た結論がザクセン・コープルク・ゴータ家のレオポルドだ。この長い名前のザクセン・コープルク・ゴータ家とは、名前の通りドイツ東部のザクセンの公爵家の家柄で、ドイツ連邦を形成するザクセン・コーブルク公国とザクセン・ゴータ公国が一つとなった公国の家系だ。レオポルドはこの家の三男坊だ。」
レオポルド1世 制作者:George Dawe (1781?1829) 制作年:1818年〜1850年
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「年が明けた1831年6月、国際会議はようやくレオポルドをベルギー国王として推薦することを決定。6月4日にベルギー議会がこれを承認し、7月21日にブリュッセルの王宮で初代国王・レオポルド1世として即位することになりました。
こうして、ベルギーは独立国としてスタートすることになったわけですね。」
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「こうして、列強の利害関係を調整した結果として、ベルギー王国が無事に成立したかに見えたんだが、一人、ほとんど納得できない人物がいた。オランダ王ウィレム1世だ。ベルギー独立が認められると、どう考えても一番損をしているのはオランダだ。そこで、オランダは独立を認める代わりに賠償金を払え、とベルギーに要求していたんだ。当然、ベルギーは払いたくないんだが、今後の列強との関係やベルギーの国際的な立場を考えれば、やむを得ない代償といえるだろう。ただ、これに加えてルクセンブルクの問題が加わって事態はややこしくなる。
ウィーン体制成立時にオランダのウィレム1世はルクセンブルク大公を兼ねることで、ルクセンブルクも支配下に置いていたわけだが、それはルクセンブルクが望んでそうしたわけではない。むしろ、ベルギーが独立するなら、ルクセンブルクもベルギーの加入したい、と言ってきたんだ。ベルギーは歓迎だが、当然のようにウィレム1世は反対だ。」
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「ベルギーは賠償金支払いをさせられているのに、ルクセンブルクを加えることもできないのでは納得できない、と会議の後半で再び揉め始めてしまいました。列強は、これ以上ベルギー問題に時間をかけるのは列強としての体面もよくない、ということもあり、決議の前にルクセンブルクの一部をベルギー領とする代わりに、賠償金を減額する、ということでベルギーを妥協させたんです。」
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「ところが、オランダのウィレム1世にはこの話を通さなかったようで、会議結果を見たウィレム1世は驚愕した。列強に騙された、と感じただろう。賠償金は減らされた上に、ルクセンブルクの一部までベルギーに取られるわけだからな。そこで、レオポルド1世が即位してから約2か月後の1838年8月、オランダ軍を再びベルギーに侵攻させ、ハッセルト周辺の戦いでベルギーを破ったんだ。」
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「これに驚いたレオポルド1世はすぐにイギリス・フランスに救援を要請。ウィレム1世も、イギリス・フランスの2国を相手にするわけにはいかず、軍を撤退させました。この戦いは十日間戦争と呼ばれています。」
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「十日間戦争の後も、フランス軍はしばらくの間ベルギーに駐留していた。これは、フランスの野心というよりも、オランダの再度の襲撃を心配したレオポルド1世の要請によるものだったそうなのだが、中立的な地位であるベルギーに、フランスが軍を常駐させておく、というのは他の列強から見れば面白くない。そこで、フランス軍も撤退することで、ベルギー独立の問題はようやく解決することになったぜ。」
big5
「と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
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