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絶対主義時代と国王たちの戦い

イギリス チャールズ2世の治世

概要

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「さて、今回のテーマはチャールズ2世です。クロムウェルが主導した共和政イギリスは、クロムウェルの死によって崩壊。議会は再びステュアート朝の国王を迎え入れることになりました。それが、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世です。」

King Charles II by John Michael Wright or studioチャールズ2世 制作年:1660〜1665年 制作者:John Michael Wright

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「今回は、約25年に渡るチャールズ2世時代のイギリスの歴史を見ていきましょう。」
名もなきOL
「チャールズ2世の時代はどんな時代だったんですか?」
big5
「一言で言えば「チャールズ2世と議会の争いの時代」と言えますね。自分の思い通りに政治をしたいチャールズ2世と、国王の好き勝手にはさせない、という議会がしばしば対立したんです。ピューリタン革命のような内戦にはなりませんでしたが、国王と議会の関係は何度か悪化しています。
イギリス国教とその他の宗教の違いも、この国王 vs 議会の対立に大きな影響を与えているのがポイントです。」
名もなきOL
「その辺りの話は、ジェームズ1世やチャールズ1世の時と同じ感じなんですね。」
big5
「そうですね。宗教改革が巻き起こした騒乱と対立は、まだまだ根深く残っていたのがこの時代の特徴ですね。
さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」

年月 イギリスのイベント 世界のイベント
1660年 王政復古 チャールズ2世即位
1661年 (仏)ルイ14世 親政開始
1664年 第二次英蘭戦争 開戦
1665年 ロンドンでペスト流行
1666年 ロンドン大火
1667年 第二次英蘭戦争 終結 (仏・西 他)ネーデルラント継承戦争
1670年 ルイ14世とドーヴァーの密約 (露)ステンカ=ラージンの反乱
1672年 第三次英蘭戦争 開戦 (仏・蘭 他)オランダ侵略戦争 開戦
1673年 審査法 成立 (中)三藩の乱 始まる
1674年 第三次英蘭戦争 終結 (印)マラータ王国 成立
1679年 人身保護法 成立
1683年 (墺土)第二次ウィーン包囲 大トルコ戦争 開戦
1685年 チャールズ2世死去 弟のジェームズ2世即位 (仏)ナントの勅令 廃止

チャールズ2世の治世 前半

ブレダ宣言と王政復古 1660年

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「さて、前回の「共和政イギリス」で見たように、クロムウェルの軍事独裁体制となった共和政ギリスは、クロムウェルの死により崩壊しました。1660年、チャールズ2世(この年30歳)はこれを好機としてオランダの都市・ブレダでブレダ宣言を発しました。その主な内容は・・・
@内戦中の行動については、大赦を出す。
A共和政時代に行われた土地売買の承認
B信仰の自由の保障
C議会を尊重する。
というものでした。@、Aにより、状況をチャールズ1世処刑前のものに戻す、というようなことは避けて、現状のイギリスを受け入れるとし、Bで宗教問題では寛容さをアピール。そしてCで議会に譲歩する姿勢を見せました。議会の中でも、王党派や長老派などの親国王派はこれを受け入れます。
こうして、チャールズ2世は1660年5月25日に海を越えてドーヴァーに上陸。民衆は歓呼してチャールズ2世を迎えたそうです。その後、クロムウェルの墓は暴かれ死体が斬首され、革命首謀者30名が処刑されたのは「共和政イギリス」で説明したとおりです。」
名もなきOL
「クロムウェルの時代は、ピューリタン信仰が全てということで、他の宗派の人々が酷い目に合ってきたので、これで平和に収まったらいいんですけど・・」
big5
「OLさんの願いはその通りなのですが、残念なことにそうはなりませんでした。まず、共和政時代に幅を利かせていたピューリタンの勢力は地に落ちました。代わりに、イギリス国教会が息を吹き返して主教体制を復活させます。そして、カトリックやそれ以外の宗派の人は弾圧されるようになりました。ピューリタン革命以前の状態に戻ったかんじですね。

第二次英蘭戦争 1664〜1667年

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「チャールズ2世の王政復古からしばらく経った1664年、第二次英蘭戦争が勃発しました。第二次英蘭戦争は、教科書や資料集などでは省略されたり、あるいは名前だけの登場になることが多いですが、ここでは簡単に概要を説明しておきますね。」
名もなきOL
「時間があまり無い受験生は、この章は飛ばしてもたぶん大丈夫ですよ。」
big5
「共和政時代に成立した航海法はチャールズ2世もそのまま適用し、オランダと敵対する方針を取りました。1664年には、オランダの北米植民地であるニューアムステルダムを占領しています。これに対してオランダがイギリスに宣戦布告して、本格的な戦争が始まりました。
イギリスが十分準備して勝利した第一次とは異なり、第二次はオランダもイギリスとの戦いにしっかり備えをしていました。それに加え、名将と名高いオランダ海軍の提督・ロイテルの活躍もあり、イギリス海軍は大苦戦。1666年に「四日海戦」と呼ばれる17世紀最大規模の海戦でオランダが勝利。オランダ海軍はテムズ川の支流であるメドウェー川を遡ってイギリスのチャムタ基地を攻略し、旗艦であるロイヤル・チャールズ号を奪取する、という大戦果を挙げました。」

Storck, Four Days Battle四日海戦 制作年:1670年 制作者:Abraham Storck

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「また、戦争以外の面でもイギリスには厄災が襲い掛かりました。1665年にはロンドンでペストが大流行しました(この時期のロンドンにおけるペスト流行の様子を記録したのが、作家・デフォーの「ペストの記憶」)。1666年にはロンドン大火で街の大部分が焼け落ちてしまっています。」
名もなきOL
「第一次とは逆で、第二次はオランダが優勢だったんですね。」
big5
「はい、そうなんです。しかし、オランダにはもう一つ、恐るべき敵がいました。それは、フランスのルイ14世です。ルイ14世は、オランダがイギリスと戦争しているスキを突くかのようにして、オランダへ攻め込もうとしていました。そのため、オランダの指導者・ウィットは、イギリスとの戦争は早めに終わらせて、フランスの侵攻にそなえようとしたわけです。
オランダのブレダで講和が結ばれ、第二次英蘭戦争はオランダ優勢で終結しました。ブレダ講和条約により、イギリスの航海法は一部だけ緩和された(ドイツ産品の輸入は認める、など)他に・・・
@イギリスが占領した北米植民地・ニューアムステルダムはイギリス領に。街の名前はニューヨークに改称(現在のアメリカの大都市ニューヨーク)。
Aイギリスの南米植民地・スリナムをオランダに割譲。
と、植民地の領土交換が行われました。」
名もなきOL
「あれ?イギリスが劣勢だったわりには、大都市ニューヨークを獲得しているんですね。ウィットはよっぽど講和を急いだのかしら?」
big5
「そこはよくある誤解の一つなんです。ニューヨークと言っても、1667年時点でのニューヨークは、まだまだ開拓途中の小さな集落だったんです。現在のような大都市ではなかったんですね。一方、イギリスがオランダに譲渡したスリナムは、砂糖のプランテーションに内陸部の金鉱など、植民地として魅力的な要素がいっぱいの土地だったんです。当時の価値観では、スリナムの方がよっぽど価値があったんですね。」
名もなきOL
「なるほど。そうなると、イギリスが得たものはほとんどなく、失ったものの方が大きかったんですね。」

ドーヴァーの密約 1670年

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「チャールズ2世の治世・前半を締めくくるのは、ルイ14世と約束した秘密協定であるドーヴァーの密約です。ドーヴァーの密約も、教科書や資料集では省略されたりすることが多いですが、この後の第三次英蘭戦争や審査法に繋がる話なので、ここでは概要を説明しておきます。」
名もなきOL
「ヨーロッパの歴史って、こういう「〜〜の密約」って多いですね。王様たちは、こういう秘密の約束が好きだったんでしょうね。」
big5
「第二次英蘭戦争の劣勢に加え、ペストや大火で泣きっ面に蜂となったチャールズ2世の財政事情は大幅に悪化しました。しかし、税金を増やすためには議会の承認を得なければなりません。もちろん、議会は簡単には増税に賛成しません。チャールズ2世はなんとかして、資金繰りの目途を立てなければなりませんでした。そんなチャールズ2世に手を差し伸べたのがルイ14世です。ルイ14世は、チャールズ2世に資金援助をする代わりに、以下のことを求めました。
@フランスがオランダに侵略する際には、イギリスもオランダを攻撃すること。
Aイギリス国内のカトリック化を進めること。
です。」
名もなきOL
「@はわかります。オランダはけっこう強い国なので、協同してやっつけよう、という話ですね。でも、Aはありえないのでは?イギリスではイギリス国教が一番で、カトリックは弾圧されているんですよね?」
big5
「はい。ただ、Aについては重要な話があります。それは、チャールズ2世と、後に跡を継ぐジェームズ2世は二人ともカトリックだったんです。チャールズ2世もジェームズ2世も、イギリス共和政の時代はフランスで亡命生活を送っていたりもしてたので、親フランス派です。フランスはバリバリのカトリック国家なので、おそらくこの時にカトリックに改宗したのでしょう。ところが、イギリスはOLさんが言われたように、イギリス国教の国です。国王はイギリス国教の頂点に立っています。その国王が、まさかカトリックだなんて、到底許されることはないでしょう。なので、二人とも自分がカトリックであることはひた隠しに隠していたんです。
しかし、カトリックのルイ14世から見れば、イギリス国教などという宗派がイギリス政治を担ってカトリックと対立するのは面白くありません。チャールズ2世やジェームズ2世は、イギリスをカトリック国家に戻すいい手駒であるわけですね。」
名もなきOL
「なるほど、策略好きなルイ14世らしいですね。」
big5
「チャールズ2世はこの条件を受け入れます。ただし、これはあくまで「密約」。議会は知りません。チャールズ2世は、ドーヴァーの密約を果たすために動き出すのですが・・・ここから後半になります。」

チャールズ2世の治世 後半

第三次英蘭戦争と審査法 1672〜1674年

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「1672年、フランスのルイ14世はオランダへ侵攻を開始。ドーヴァーの密約通り、チャールズ2世もオランダに宣戦布告し、第三次英蘭戦争が始まりました。」
名もなきOL
第三次英蘭戦争は、フランスによるオランダ侵略戦争の一環だったんですね。フランスだけでも強敵なのに、イギリスまで敵に回ったら、オランダの苦戦は免れないですね。」
big5
「そうですね。しかし、ルイ14世の目論見は失敗に終わります。第二次英蘭戦争でも活躍したロイテル提督の活躍により、イギリス海軍はオランダ海軍に敗退。チャールズ2世は戦争税を課税して海軍を立て直し、再びオランダに挑戦しようとしましたが、今度は議会が課税に反対しました。というのも、ドーヴァーの密約の内容が漏れてしまい、チャールズ2世がカトリックを受け入れようとしていることがバレてしまったんです。チャールズ2世は同じ1672年に信仰自由宣言を出し、まずは信教の自由を認めるということでカトリックを受け入れようとしました。しかし、イギリス国教で固められている議会はこれに反発。1673年に審査法を定めて対抗しました。」
名もなきOL
「審査法って何ですか?」
big5
「官職に就くものはすべて、国教会の儀式に従って聖餐を受け、国王至上の誓いを行い、化体説反対の宣言に署名をする、というものです。これは、自分が紛れもなく敬虔なイギリス国教徒であることを周囲に知らしめることでした。審査法によって、官職はすべてイギリス国教会の信徒でなければならない、というルールが出来上がったんです。審査法が廃止されるのは、19世紀に入ってから、1828年の話なので、およそ150年に渡って継続されました。」
名もなきOL
「なんか意外。イギリスって、もっと自由なイメージがあったんですけど、宗教面ではかなり非寛容なんですね。」
big5
「第三次英蘭戦争も、議会の反対のために戦争継続困難となり、1674年には単独でオランダと講和。まったく戦果をあげられず、第三次英蘭戦争は終結しました。この時、講和の条件として、チャールズ2世の弟であるジェームズ2世の娘のメアリーが、オランダ総督ウィレム3世に嫁ぐ、という政略結婚も決まりました。ここに来て、イギリスはオランダと政略結婚して、外交方針を180度転換したわけですね。これにはルイ14世もさぞかしお怒りだったことでしょう。ルイ14世のオランダ侵略戦争は1677年まで継続されましたが、結果としては決定的な勝利を収めることはできず、フランス領がわずかに増えただけで終結となりました。」

人身保護法 1679年

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「第三次英蘭戦争に敗北した後も、チャールズ2世と議会のせめぎ合いはしばしば起こりました。その中でも、特に重要なのが1679年に議会が成立させた人身保護法です。」
名もなきOL
「この流れで「人身保護」というと、例えば国王の一存で人を逮捕できない、とかですね?」
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「OLさん鋭いですね。その通りです。人身保護法の主な内容は・・・
1.人民は理由なく逮捕・拘禁されることはない。
2.逮捕拘禁は人身保護令状によらなければならない。
3.この法令に反した裁判官は厳罰に処される。
というものでした。逆に言うと、それまでは王様が「コイツ気に入らないから逮捕しろ」と言えば、それだけで逮捕することができたわけです。しかし、人身保護法が制定されたことにより、国王といえども「コイツ気に入らないから」ぐらいの理由だけでは逮捕できず、令状が無ければ逮捕はできない、と定めたわけです。現代日本でも、人を逮捕するには「逮捕令状」がなければできない、というのが原則になっています。イギリスでは、1679年にこのような法令が制定されました。絶対主義時代である一方で、国王の権利に様々な制限を課していたのがイギリスの特徴ですね。

チャールズ2世の死 1685年

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「1685年、チャールズ2世が死去しました。55歳になる年でした。チャールズ2世はたいへんな女好きで、妾が産んだ子はけっこうたくさんいたのですが、王妃との間には子供がいませんでした。」
名もなきOL
「その点は、絶対主義時代らしく王様がやりたい放題だったんですね。。」
big5
「妾の子には、イギリス王位継承権は認められませんでしたので、チャールズ2世の後継者は弟のジェームズ2世(この年52歳)となりました。チャールズ2世は死の床で、これまでずっと隠してきた(後半はややバレていたようですが)「カトリック信者である」ことを告白して亡くなった、と伝えられています。

James II of Englandジェームズ2世 制作年:1684年 制作者:Godfrey Kneller

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「チャールズ2世の人生はかなり波乱に満ちているものでした。父のチャールズ1世はピューリタン革命で殺され、若い時はフランスなどで過ごし、イギリス共和政が倒れてから国王として復帰。その後、議会と揉めながらオランダと戦争するも実質的に敗北するなど、苦労したわりにはあまり活躍が見られません。しかし、この時代にイギリスの議会は、その地位を確固たるものとしていく過程にあったわけです。

と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」

大学入試 共通テスト 過去問

big5
「大学入試共通テストでは、チャールズ2世時代の論点は、最近はあまり出題されません。優先順位は低いので、時間が無い受験生はこの分野の学習は後回しにするのも一つの方法でしょう。ただ、そろそろ出題されるかもしれません。」



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