big5
「さて、今回のテーマはチャールズ2世です。クロムウェルが主導した共和政イギリスは、クロムウェルの死によって崩壊。議会は再びステュアート朝の国王を迎え入れることになりました。それが、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世です。」
big5
「今回は、約25年に渡るチャールズ2世時代のイギリスの歴史を見ていきましょう。」
名もなきOL
「チャールズ2世の時代はどんな時代だったんですか?」
big5
「一言で言えば「チャールズ2世と議会の争いの時代」と言えますね。自分の思い通りに政治をしたいチャールズ2世と、国王の好き勝手にはさせない、という議会がしばしば対立したんです。ピューリタン革命のような内戦にはなりませんでしたが、国王と議会の関係は何度か悪化しています。
イギリス国教とその他の宗教の違いも、この国王 vs 議会の対立に大きな影響を与えているのがポイントです。」
名もなきOL
「その辺りの話は、ジェームズ1世やチャールズ1世の時と同じ感じなんですね。」
big5
「そうですね。宗教改革が巻き起こした騒乱と対立は、まだまだ根深く残っていたのがこの時代の特徴ですね。
さて、まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」
年月 | イギリスのイベント | 世界のイベント |
1660年 | 王政復古 チャールズ2世即位 | |
1661年 | (仏)ルイ14世 親政開始 | |
1664年 | 第二次英蘭戦争 開戦 | |
1665年 | ロンドンでペスト流行 | |
1666年 | ロンドン大火 | |
1667年 | 第二次英蘭戦争 終結 | (仏・西 他)ネーデルラント継承戦争 |
1670年 | ルイ14世とドーヴァーの密約 | (露)ステンカ=ラージンの反乱 |
1672年 | 第三次英蘭戦争 開戦 | (仏・蘭 他)オランダ侵略戦争 開戦 |
1673年 | 審査法 成立 | (中)三藩の乱 始まる |
1674年 | 第三次英蘭戦争 終結 | (印)マラータ王国 成立 |
1679年 | 人身保護法 成立 | |
1683年 | (墺土)第二次ウィーン包囲 大トルコ戦争 開戦 | |
1685年 | チャールズ2世死去 弟のジェームズ2世即位 | (仏)ナントの勅令 廃止 |
big5
「さて、前回の「共和政イギリス」で見たように、クロムウェルの軍事独裁体制となった共和政ギリスは、クロムウェルの死により崩壊しました。1660年、チャールズ2世(この年30歳)はこれを好機としてオランダの都市・ブレダでブレダ宣言を発しました。その主な内容は・・・
@内戦中の行動については、大赦を出す。
A共和政時代に行われた土地売買の承認
B信仰の自由の保障
C議会を尊重する。
というものでした。@、Aにより、状況をチャールズ1世処刑前のものに戻す、というようなことは避けて、現状のイギリスを受け入れるとし、Bで宗教問題では寛容さをアピール。そしてCで議会に譲歩する姿勢を見せました。議会の中でも、王党派や長老派などの親国王派はこれを受け入れます。
こうして、チャールズ2世は1660年5月25日に海を越えてドーヴァーに上陸。民衆は歓呼してチャールズ2世を迎えたそうです。その後、クロムウェルの墓は暴かれ死体が斬首され、革命首謀者30名が処刑されたのは「共和政イギリス」で説明したとおりです。」
名もなきOL
「クロムウェルの時代は、ピューリタン信仰が全てということで、他の宗派の人々が酷い目に合ってきたので、これで平和に収まったらいいんですけど・・」
big5
「OLさんの願いはその通りなのですが、残念なことにそうはなりませんでした。まず、共和政時代に幅を利かせていたピューリタンの勢力は地に落ちました。代わりに、イギリス国教会が息を吹き返して主教体制を復活させます。そして、カトリックやそれ以外の宗派の人は弾圧されるようになりました。ピューリタン革命以前の状態に戻ったかんじですね。」
big5
「チャールズ2世の王政復古からしばらく経った1664年、第二次英蘭戦争が勃発しました。第二次英蘭戦争は、教科書や資料集などでは省略されたり、あるいは名前だけの登場になることが多いですが、ここでは簡単に概要を説明しておきますね。」
名もなきOL
「時間があまり無い受験生は、この章は飛ばしてもたぶん大丈夫ですよ。」
big5
「共和政時代に成立した航海法はチャールズ2世もそのまま適用し、オランダと敵対する方針を取りました。1664年には、オランダの北米植民地であるニューアムステルダムを占領しています。これに対してオランダがイギリスに宣戦布告して、本格的な戦争が始まりました。
イギリスが十分準備して勝利した第一次とは異なり、第二次はオランダもイギリスとの戦いにしっかり備えをしていました。それに加え、名将と名高いオランダ海軍の提督・ロイテルの活躍もあり、イギリス海軍は大苦戦。1666年に「四日海戦」と呼ばれる17世紀最大規模の海戦でオランダが勝利。オランダ海軍はテムズ川の支流であるメドウェー川を遡ってイギリスのチャムタ基地を攻略し、旗艦であるロイヤル・チャールズ号を奪取する、という大戦果を挙げました。」
big5
「また、戦争以外の面でもイギリスには厄災が襲い掛かりました。1665年にはロンドンでペストが大流行しました(この時期のロンドンにおけるペスト流行の様子を記録したのが、作家・デフォーの「ペストの記憶」)。1666年にはロンドン大火で街の大部分が焼け落ちてしまっています。」
名もなきOL
「第一次とは逆で、第二次はオランダが優勢だったんですね。」
big5
「はい、そうなんです。しかし、オランダにはもう一つ、恐るべき敵がいました。それは、フランスのルイ14世です。ルイ14世は、オランダがイギリスと戦争しているスキを突くかのようにして、オランダへ攻め込もうとしていました。そのため、オランダの指導者・ウィットは、イギリスとの戦争は早めに終わらせて、フランスの侵攻にそなえようとしたわけです。
オランダのブレダで講和が結ばれ、第二次英蘭戦争はオランダ優勢で終結しました。ブレダ講和条約により、イギリスの航海法は一部だけ緩和された(ドイツ産品の輸入は認める、など)他に・・・
@イギリスが占領した北米植民地・ニューアムステルダムはイギリス領に。街の名前はニューヨークに改称(現在のアメリカの大都市ニューヨーク)。
Aイギリスの南米植民地・スリナムをオランダに割譲。
と、植民地の領土交換が行われました。」
名もなきOL
「あれ?イギリスが劣勢だったわりには、大都市ニューヨークを獲得しているんですね。ウィットはよっぽど講和を急いだのかしら?」
big5
「そこはよくある誤解の一つなんです。ニューヨークと言っても、1667年時点でのニューヨークは、まだまだ開拓途中の小さな集落だったんです。現在のような大都市ではなかったんですね。一方、イギリスがオランダに譲渡したスリナムは、砂糖のプランテーションに内陸部の金鉱など、植民地として魅力的な要素がいっぱいの土地だったんです。当時の価値観では、スリナムの方がよっぽど価値があったんですね。」
名もなきOL
「なるほど。そうなると、イギリスが得たものはほとんどなく、失ったものの方が大きかったんですね。」
big5
「チャールズ2世の治世・前半を締めくくるのは、ルイ14世と約束した秘密協定であるドーヴァーの密約です。ドーヴァーの密約も、教科書や資料集では省略されたりすることが多いですが、この後の第三次英蘭戦争や審査法に繋がる話なので、ここでは概要を説明しておきます。」
名もなきOL
「ヨーロッパの歴史って、こういう「〜〜の密約」って多いですね。王様たちは、こういう秘密の約束が好きだったんでしょうね。」
big5
「第二次英蘭戦争の劣勢に加え、ペストや大火で泣きっ面に蜂となったチャールズ2世の財政事情は大幅に悪化しました。しかし、税金を増やすためには議会の承認を得なければなりません。もちろん、議会は簡単には増税に賛成しません。チャールズ2世はなんとかして、資金繰りの目途を立てなければなりませんでした。そんなチャールズ2世に手を差し伸べたのがルイ14世です。ルイ14世は、チャールズ2世に資金援助をする代わりに、以下のことを求めました。
@フランスがオランダに侵略する際には、イギリスもオランダを攻撃すること。
Aイギリス国内のカトリック化を進めること。
です。」
名もなきOL
「@はわかります。オランダはけっこう強い国なので、協同してやっつけよう、という話ですね。でも、Aはありえないのでは?イギリスではイギリス国教が一番で、カトリックは弾圧されているんですよね?」
big5
「はい。ただ、Aについては重要な話があります。それは、チャールズ2世と、後に跡を継ぐジェームズ2世は二人ともカトリックだったんです。チャールズ2世もジェームズ2世も、イギリス共和政の時代はフランスで亡命生活を送っていたりもしてたので、親フランス派です。フランスはバリバリのカトリック国家なので、おそらくこの時にカトリックに改宗したのでしょう。ところが、イギリスはOLさんが言われたように、イギリス国教の国です。国王はイギリス国教の頂点に立っています。その国王が、まさかカトリックだなんて、到底許されることはないでしょう。なので、二人とも自分がカトリックであることはひた隠しに隠していたんです。
しかし、カトリックのルイ14世から見れば、イギリス国教などという宗派がイギリス政治を担ってカトリックと対立するのは面白くありません。チャールズ2世やジェームズ2世は、イギリスをカトリック国家に戻すいい手駒であるわけですね。」
名もなきOL
「なるほど、策略好きなルイ14世らしいですね。」
big5
「チャールズ2世はこの条件を受け入れます。ただし、これはあくまで「密約」。議会は知りません。チャールズ2世は、ドーヴァーの密約を果たすために動き出すのですが・・・ここから後半になります。」
big5
「チャールズ2世の人生はかなり波乱に満ちているものでした。父のチャールズ1世はピューリタン革命で殺され、若い時はフランスなどで過ごし、イギリス共和政が倒れてから国王として復帰。その後、議会と揉めながらオランダと戦争するも実質的に敗北するなど、苦労したわりにはあまり活躍が見られません。しかし、この時代にイギリスの議会は、その地位を確固たるものとしていく過程にあったわけです。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、チャールズ2世時代の論点は、最近はあまり出題されません。優先順位は低いので、時間が無い受験生はこの分野の学習は後回しにするのも一つの方法でしょう。ただ、そろそろ出題されるかもしれません。」
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