Last update:2022,May,14

源平合戦 詳細篇 富士川の戦い

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「さて、今回は「日本史 武士の台頭 源平合戦」の「詳細篇」いうことで、本編では概要しか紹介しなかった富士川の戦いについて、より深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人は、まずはこちらの本編、から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」
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「富士川の戦いは、本編ではこのように説明した。
時は1180年(治承4年)、以仁王と源頼政の挙兵から始まった反平氏の反乱は各地に広がり、平家といえどもすぐに鎮圧できないほどの数と規模になっていた。関東方面では、後に鎌倉幕府を開く源頼朝が挙兵し、一時的にピンチになるものの、挽回して鎌倉に入り、関東地方における一大勢力を築くに至った。それを知った平家は驚き、追討軍を派遣することを決定。この平家が派遣した追討軍と、源頼朝率いる関東の源氏の軍が富士川をはさんで対陣したものの、平家の軍は夜に水鳥の群れが飛び立つ羽音に驚いて一戦も交えずに撤退した。都で贅沢の限りを尽くし、すっかり弱体化した平家を象徴しているかのような有名は話だよな。
という話だな。これだけ知っていれば十分だと思うが、ここではもっと詳細を見て考察していくことにするぜ。」

<目次>
1.富士川の戦いに至る経緯
2.富士川の戦い
3.平家物語の「富士川の戦い」
4.現代作品における「富士川の戦い」


1.富士川の戦いに至る経緯

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「まず、富士川の戦いの前の動きを表にして見てみよう。表は『吾妻鏡』の記載に基づいて作成した。」

日付 イベント
9月29日 平維盛、平忠度、平知度らが追討軍を率いて京を出発。
10月7日 頼朝が鎌倉に入り、まず鶴岡八幡宮に詣でる。(この後間もなく、鎌倉の街づくりが始まる)
10月13日 甲斐の武田信義の軍と北条親子が駿河に入る。
平維盛率いる平家軍数万騎が駿河国手越に到着。
10月14日 (鉢田の戦い)駿河の鉢田で、武田信義の軍が駿河目代の橘遠茂ら平家方の軍を破る
10月15日 源頼朝が鎌倉の屋敷に入る。
10月16日 平家軍襲来の報せを聞き、頼朝らが軍を率いて出陣。
10月18日 大庭景親は1000騎を率いて平家軍に合流しようとするものの、頼朝が20万騎を率いて足柄を越えるところだったので、河村山に逃亡する。
晩、頼朝軍は黄瀬川に到着。武田信義・北条時政と会い、24日を合戦の日と決める。
10月19日 平家軍に合流しようとした伊藤祐親を、天野遠景が伊豆の鯉名で捕える。
10月20日 富士川の戦い)頼朝が駿河国賀島に到着。平家軍は富士川の西岸に陣を構える。
半更(夜中)、武田信義が平家の陣の後面を攻撃しようとしたところ、富士沼に集まった水鳥が飛び立ち、その羽音で平家軍の士気が落ちる。維盛は撤退を指示。
10月21日 頼朝は追撃しようとするものの、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らの諫めで思いとどまる。
黄瀬川で源義経と会見する。

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「まず、平家の方から見てみよう。追討軍の総大将となったのは平維盛(これもり この年21歳)。清盛の嫡男・重盛の嫡子で、まだまだ若者だ。当然、戦の経験はほぼ無いので、これを補佐するように平忠度(ただのり 清盛の弟。この年36歳)が加わっている。他に名が記録されているのは、清盛の七男の平知度(とものり 生年不詳)だな。知度はあまり知名度が無く、生年不詳で母親も不詳なので、謎が多い。ただ、清盛の七男ということは、五男の重衡(しげひら この年22 or 23歳)よりも若いハズなので、これも戦の経験は乏しいだろう。」
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「こうして改めて見てみると、平家軍で力量がある指揮官は忠度だけですね。他は若手に経験を積ませることが目的のように見えます。副官として藤原忠清(ふじわらただきよ 伊藤忠清、とも 生年不詳)は、保元の乱(1156年)で平家軍の先陣を務めている歴戦の武士ですね。」
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「指揮官の顔ぶれを見ると、平家の精鋭ではない、というところだな。おそらく、反乱鎮圧を「若手でも補助を付ければ鎮圧できるだろうから、経験を積ませるいい機会」というかんじで決めた人事なんだろうな、と思うぜ。
これに対して、既に鎌倉入りしている頼朝軍はなんと20万騎、武田信義の軍も数万騎と『吾妻鏡』は記しており、若手でなんとかできるような相手ではなかったわけだな。」
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「頼朝の20万騎、というのは明らかに誇張でしょう。承久の乱の時の幕府軍とほぼ同数になるわけですが、この時点で頼朝に承久の乱の時の幕府と同等の動員力があったとは思えません。武田信義の数万騎、というのも誇張だと思いますね。」
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「そうだな。それと、富士川の戦いには、もう一つ重要な参加者がいたことがわかる。それが武田信義(この年52歳)だ。武田信義は、源義家の弟である源義光の曾孫にあたる、源氏の流れを汲む者だ。その点では、頼朝と同格と言っていいだろう。ちなみに、武田信義が甲斐武田氏の祖にあたり、有名な子孫は戦国大名・武田信玄だな。と、話が逸れた。つまり、武田信義は頼朝のライバルになり得る、源氏の血を引く人物であったわけだな。武田信義も、おそらく以仁王の令旨を受け取って、挙兵の話に加わっていたのだろう。詳細はわからないが、頼朝と合流する前に自軍を率いて、鉢田の戦いで駿河目代の橘遠茂を破っているので、それなりの戦力を持っている勢力だったことは間違いないだろう。」
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「平家の追討軍は、頼朝だけではなく武田信義も狙いだったのではないか、という説もありますしね。武田信義の存在が、『吾妻鏡』の曲筆を疑う基になっているのもうなずけますね。」

2.富士川の戦い

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「さて、次に水鳥の羽音と平家敗走について見てみようか。
まず、兵数に誇張があるのは歴史のあるあるだからな。兵数は置いておいたとしても、『吾妻鏡』の記述では、平家軍は兵力的に頼朝や武田信義に劣っていた、という仮説はできるな。10月20日に富士川で対陣した時点で、おそらく平家は敵戦力がかなり多いことに驚いたのだろう。兵の士気も下がったのだと思う。それで、水鳥の音がきっかけとなって敵前逃亡したのではないか、と考えられるぜ。」
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「そうですね。『吾妻鏡』の10月20日の内容は、以下のようになっています。
「20日、頼朝は駿河の賀島に陣を構え、平家は富士川の西岸に陣を構えた。夜中になり、武田信義が平家の陣の後面を攻撃しようとしたところ、富士沼の水鳥の集団が羽ばたいて軍のような音を立て、平家軍はたいへん驚いた。次将の藤原忠清は「東国はことごとく頼朝に従ってしまった。我らは京を出てここまで来たが、逆に敵に包囲されようとしている。すぐに帰京し他の策略を考えるべきです。」といった。維盛らは夜明けを待たずに撤退していった。源氏方の飯田五郎家義と息子らが河を渡って撤退する平家軍を追った。伊勢の住人である伊藤武者次郎が取って返してきて戦い、家義の息子の飯田太郎は討ち取られてしまった。しかし、家義は伊藤武者次郎を打ち取って仇を取った。」
このように、『吾妻鏡』では、ベテランの藤羅忠清が包囲されて敗北することを悟り、即時撤退を薦めて維盛らはそのとおりにした、という筋書きになっています。また、平家軍に夜襲を仕掛けようとしたのは武田信義で、頼朝は賀島というところに陣を張った、というだけであまり関わっていないように見えますね。
飯田五郎の話は、まぁ、さほど気にしなくても大勢に影響はないでしょう。」
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「これは、10月18日の黄瀬川での頼朝と武田信義の会見の話が伏線になっているんだと思う。18日の記述は以下のようになっているな。
「18日、黄瀬川に頼朝が到着。24日を箭合(やあわせ)と定める。ここに、甲斐・信濃の源氏と北条時政が2万騎を率いて参会し、頼朝が謁見した。(後略)」
略した後ろの部分は、それぞれの武者が立てた武勲の話だ。この黄瀬川の会見で、甲斐・信濃の源氏2万騎とありますが、武田信義本人の名前が出ていない。おそらく、武田信義は頼朝と会うのを避け、代わりに部下を引き合わせたのだろう。また、頼朝は24日に戦闘開始と決めているので、20日は頼朝にとってはまだ早すぎるわけだ。おそらく、武田信義は頼朝を出し抜いて単独で平家軍を打ち破ろうとしたのではないか、と思う。頼朝には部下を送って様子を探らせ、そのうえで自分は先に進んで平家軍を破って武名を挙げようとしたのだろう。平家軍が意外と少ないことは、おそらく信義も把握していただろうから、単独で十分勝てる、と考えても変ではない。その結果が夜襲であり、それが水鳥の羽音の原因になってしまって、平家の不戦敗に繋がったのではないか、というのが俺の考えだ。」
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「『吾妻鏡』に基づいて考えると、そうなりますね。次に『平家物語』が描く富士川の戦いを見てみましょうか。」

3.平家物語の「富士川の戦い」

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「『平家物語』では、当然のように平家側から見た富士川の戦いが描かれている。これも、まずは経緯を表にまとめてみようか。」

日付 イベント
9月18日 平維盛を大将軍、平忠度を副将軍とする3万余騎(以降「平家軍」)が福原を出陣。
9月19日 平家軍、京都に到着。
9月20日 平家軍、東国へ出発。
10月6日 平家軍、駿河国清見に到着。道中、兵を加えて7万余騎ほどに。先陣は蒲原、富士川に進んでおり、後陣はまだ手越、宇津に。
頼朝は足柄山を越えて駿河国黄瀬川に到着。浮島が原で勢揃えし20万騎。
10月23日 富士川の戦い)翌日24日を矢合(戦闘)の日と定める。
夜半、富士沼の水鳥が何かに驚いて一斉に羽ばたき、平家軍瓦解して敗走。
10月24日 源氏軍、富士川に押し寄せて3度勝鬨を上げる。

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「『吾妻鏡』と比べると、日付の小さなズレがあるものの、話の筋は同じですね。まず、兵力は富士川の時点で平家軍7万、源氏軍20万となっています。これも誇張されていると思いますが、源氏軍の数は20万と、『吾妻鏡』と一致していますね。」
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「平家側は、頼朝軍を20万と認識していたのかもな。そして、武田信義の名は『平家物語』にはまったく出てこない。あくまで源氏軍は頼朝が率いている、という記述だ。そして、『平家物語』でも兵力では平家軍がかなり劣勢であることがわかるな。
それにしても、『平家物語』なのに、平家軍の指揮官として挙げられたのは維盛と忠度の2人で、『吾妻鏡』で挙げられている知度の名前がない。清盛の息子なのに、影が薄い原因の一つだと思うぜ。」
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「10月6日の記述で、維盛は足柄を越えて坂東に入って一戦交えたいと言ったものの、藤原忠清は
「清盛公は「戦いは忠清に任せよ」とご命令されています。頼朝は坂東8か国を平らげ、その軍勢はおそらく何10万騎はいます。味方の軍は長旅で疲れているうえに、伊豆や駿河から来るはずの者もまだ来ていません。富士川で待つべきです。」
と言って、平家軍は待機した。となっています。その間に、頼朝は20万騎で足柄を越えて、駿河の黄瀬川に到着した、という流れですね。次の場面で、忠清が常陸源氏の佐竹太郎の雑色が都へ手紙を届けようとしているところを捕らえて、頼朝軍が20万にも及ぶ大軍だと聞き、追討軍の出発が遅れたことを嘆きます。もっと早く出発していれば、先に足柄を越えて坂東に入り、畠山や大庭兄弟と合流できたのに、と。」
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「一理あるな。平家軍の編成と出発がもっと早かったら、頼朝軍が大きくなる前に戦闘に持ち込めたかもしれない。まぁ、これも「もしも」の話だが。」
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「これに加えて、優れた武人として有名な斎藤実盛が、平家の兵らに「坂東武者の強さと恐ろしさ」を語り、それを聞いた平家軍はますます震え上がってしまいます。」
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「この状況で、維盛は優れた武人である斎藤実盛が「坂東武者は狂人のように戦う」なんて話をしたら、自軍の士気が一気に下がることはわかると思うんだよな。斎藤実盛の件は『平家物語』の完全な創作だと俺は思うぜ。」
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「そして10月23日。明日、矢合の日と定められたました。夜になって、平家の陣から源氏の陣を見渡すと、戦を恐れて野山に避難した民衆らが焚火を焚いて夜を過ごしていました。平家軍は、これを「源氏の大軍」と誤認。さらに、夜中に何に驚いたのか、富士の沼で多数の水鳥が突然飛び立ったため、平家軍の兵士は「源氏の大軍の夜襲」と勘違いして士気は崩壊。我先にと、武器も物資もかなぐり捨てて逃げていった。翌朝の午前6時頃、源氏の大軍20万騎は富士川を渡って勝鬨を3度上げた。
と、いう概要になっていますね。」
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「まとめてみると、水鳥の羽音がきっかけとなって平家軍が敗走した、という部分は『吾妻鏡』と同じだな。ただ、『平家物語』では武田信義が登場しないこともあって、水鳥の羽音の原因は「何だかわからない」としている。平家側の視点では、確かにそうだったかもしれないな。
日にちの違いなど細かい違いはあるものの、『吾妻鏡』は源氏側の史料、『平家物語』は平家側からの史料の一つとして十分使えると思うぜ。」

4.現代作品における「富士川の戦い」

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「参考までに、他の歴史作品では、富士川の戦いがどう描かれているのか、紹介しておくぜ。
1.『鎌倉殿の13人 2022年 NHK大河ドラマ』(脚本:三谷幸喜)

 1180年10月13日、平維盛率いる追討軍は東海道を進軍。この報が頼朝の元に届き、その兵力は5万〜7万と伝えられる。頼朝は「武田信義が来なければ勝てない」と言い、まだ来ない武田軍と使いに行った時政に苛立つ。そんな中、時政は鎌倉に帰還。武田信義が甲斐から連れ出して駿河に向かったと報告するが、頼朝は「信義をなぜ連れてこ来なかった!ワシが信義の元に出向けと言うのか!」と激怒。
 10月16日、頼朝らが武田軍と合流するために出陣。黄瀬川に到着。
 10月20日、平維盛は富士川西岸に到着。頼朝は武田信義と黄瀬川で会見。信義と「戦は明後日」と決めるが、その後の酒席で酔わされる。武田信義は、そのスキをついて平家に夜襲を仕掛ける準備を進めた。信義は、頼朝を騙したのである。頼朝軍を近くに置いて平家を威圧させておき、自身は単独夜襲で平家を破り、武名を勝ち取ろうという作戦だったのである。
その夜、富士川沿いで北条時政と三浦義澄が話をしている際に、時政が義澄を殴って(※筆者注 なんで殴ったのかは、是非『鎌倉殿の13人』を見てほしいです。)義澄が川にバシャンと落ちた。これに驚いた数多くの水鳥が一斉に羽ばたき、恐れ慄いていた平家軍は士気が崩壊。雪崩を打って逃げ出した。
こうして、平家の追討軍は戦わずして敗北。頼朝は追撃をかけようとするが、時政に「御家人にとって大事なのは自分の所領。兵糧がない状態で京都まで行けない」と言われて追撃を諦めた。武田信義も追撃を諦めた。」

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「『吾妻鏡』をベースにして、三谷氏らしい味付けでできた「富士川の戦い」になっていますね。どう感じるかは人によると思いますが、私はこのような解釈もできると思います。水鳥が飛んだ理由が、時政が義澄を殴ったから、というのは違うと思いますが(笑)」





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参考文献・Web site


全譯 吾妻鏡 第1巻
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