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古代

古代エジプト 詳細篇

カデシュの戦い

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「さて、今回は「古代エジプト」の詳細篇ということで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人や大学入試共通試験の勉強がしたいという人は、こちらの本編から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」

<目次>
1.カデシュの戦いが起きたのはいつ?
2.戦闘経過
3.カデシュの戦いの後 平和友好条約


カデシュの戦いが起きたのはいつ?

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「本編では前1286年くらい、と書いていたが、古代文明史では年代の正確な特定がかなり難しい、というのが特徴の一つだな。カデシュの戦いの年代もその一例だな。」
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「古代エジプトは記録がよく残っている方ですが、当然、彼らの記録には「紀元前〜〜年」なんて記載はされていません。年代の表現でよく使われているのは、「ラムセス2世〇年目の治世」という表現です。カデシュの戦いはラムセス2世5年目の治世のできごと、と記録されています。なので、ラムセス2世の即位が紀元前何年なのかがわかれば、カデシュの戦いの年代も特定できるわけですね。」
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「そうなんだが、ラムセス2世が何年に即位したのか、これまた特定ができていないんだ。今のところ、有力候補として前1304年、前1290年、前1279年の3つが上がっている。本編では真ん中を取って「前1286年くらい」と曖昧な表現にしたんだぜ。」
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「ラムセス2世の即位年については、いろいろ意見があります。笈川博一氏は『面白いほどよくわかる古代エジプト』で、前1279年説は、他の史実と比較すると合わないので採用する人は少数派、と記していますね。一方、Wikipediaなどでは前1274年説を取っているものが増えているようです。前1274年説の根拠は、ラムセス2世が前1279年に即位してから5年目、という数え方だな。」
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「俺たちは古代エジプト史は専門外だから、カデシュの戦いの年代についてこれ以上の言及はできないな。だが、このような年代の特定一つでも、複数の史料にあたって辿っていかないとわからないわけだから、まさに探偵業みたいだよな。」

戦闘経過

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「それでは、詳しく記録されている、と評価されているカデシュの戦いの流れを見ていこう。
治世5年目の夏の第2月の9日(今の暦では4月末くらい)、ラムセス2世はペル・ラムセスを出発しカナンの地へ向かった。」
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「ペル・ラムセス(Per-Ramesses)とは、ラムセス2世がナイル・デルタのあたり、かつてヒクソスが首都を置いたアヴァリス付近に築いた都市です。「カナンの地」とは、今のシリア・パレスティナ方面のことですね。この時代、シリア・パレスティナ方面は「カナン」と呼ばれていました。」
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「なお、ラムセス2世が率いた軍は、アモン、ラー、プタハ、セトと古代エジプトの神の名前が付けられた4個の師団と外人部隊「サアラアディイナア」で構成されていた。読みにくい名前の外人部隊は、おそらくサルディニヤ人ではないか?と考えらているが確証はない。各師団の兵数は約5,000ほどで、合計2万の軍だった、と考えられている。この中には、歩兵はもちろんエジプトのチャリオット(戦車)部隊も含まれていた。」
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「チャリオット(chariot)というのは、古代に登場する馬車ですね。戦闘用が多いので「戦車」と呼ばれたりもしますが、現代の戦車とはまったく違います。なので、ここでは「チャリオット」と表記します。古代エジプトのチャリオットは2人乗りで1人は馭者、もう一人は戦士で弓が主武装です。一方、相手のヒッタイトのチャリオットは3人乗りで、1人は馭者でもう2人が戦士、主武装は槍だったそうです。そのため、エジプトのチャリオットの方が比較的軽くてスピードも速く、距離を取って弓で戦うのが得意だったのに対し、ヒッタイトのチャリオットは重武装でやや遅い代わりに、白兵戦で力を発揮したのではないか、と考察されています。アブ・シンベル神殿の壁画に描かれている絵が↓です。大きく描かれているのがラムセス2世のチャリオットですね。」

Ramses II charging Nubians.jpg
<a href="//commons.wikimedia.org/w/index.php?title=User:Dailey78&amp;action=edit&amp;redlink=1" class="new" title="User:Dailey78 (page does not exist)">Roderick Dailey</a> - <span class="int-own-work" lang="ja">投稿者自身による著作物</span>, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

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「話を戻すぞ。ラムセス2世率いるエジプト軍は国境の砦・チャアルウを経てシナイ半島へ入り、「樅の森」と呼ばれるレバノン杉の谷にある町「ラムセス・メリアモン(アモンに愛されたラメセス、という意味)」に到着。ここから2手に分かれることにした。外国人部隊は海岸地帯を通って進み、本隊は内陸を進んでカデシュで合流する、ということになった。カデシュは現在のレバノン東部、ベッカー高原のあたり、と考えられているぜ。
ラムセス2世は本隊のうち、アモン師団を率いて南の山岳地帯で小休止したのち、南からオロンテス川の浅瀬を渡って対岸の街・シャブトゥナに入ろうとした。そんなところに、地元のベドウィン2人がラムセス2世のもとにやって来てこう告げた。
「自分たちはこれまでヒッタイトに力を貸していたが、今後はエジプトに味方するつもりだ。ヒッタイト軍はここからはるか北のアレッポ付近にいる。」
実は、この二人はヒッタイト王・ムワタリ2世が放ったスパイだった。しかし、ラムセス2世はこの2人の情報を信じ、ヒッタイト軍はまだ遠いと判断してアモン師団を率いてオロンテス川を渡河し、北上して、カデシュの街の北西に野営地を築き始めた。なお、カデシュの街はオロンテス川の西岸に位置している。この時、後続のラー師団は2,3km後方を進軍しており、プタハ、セトの2師団は10km以上後方にあった。」
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「つまり、ラムセス2世率いるアモン師団が突出してしまったわけですね。」
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「これこそ、ムワタリ2世の作戦だった。実はヒッタイト軍は既にカデシュに集結していた。エジプト軍がそれを知ったのは、上述のベドウィンを鞭打ちにしたところ「実はヒッタイト軍は既にカデシュで待ち構えている」と白状してからだった。騙されたと知ったラムセス2世は、後続の味方師団にすぐに合流するように伝令を飛ばしたが、既に遅かった。」
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「ちなみに、笈川博一氏の『面白いほどよくわかる古代エジプト』では、ヒッタイト軍の情報を最初にもたらしたのは「地元の者」で、ヒッタイト軍がカデシュにいる、という真実はエジプト斥候部隊が捕らえたヒッタイト兵2人、としています。情報内容は同じなのですが、それをもたらした人物が違う、という細かい違いがあります。なんで違うのかは不明です。」
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「いずれにしろ、ラムセス2世はムワタリ2世の罠にかかってしまった、という点は変わらないな。後続のラー師団がオロンテス川を渡り始めたころ、ヒッタイト軍の3人乗り戦車部隊が突如姿を現して、渡河途中のラー師団を急襲した。渡河途中である上に不意を突かれたラー師団はあっという間に崩壊し、散り散りになってアモン師団の野営地へ逃げていった。ヒッタイト軍はラー師団を追撃し、さらに勢いに乗ってアモン師団の野営地に突入した。」

Hittite Chariotエジプトの壁画に描かれているヒッタイトの3人乗りチャリオット

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「味方が少ない中で、敵の主力部隊に突入されてしまい、ラムセス2世はピンチに陥ります。」
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「ピンチに陥ったラムセス2世だが、ここで超人的な武勇を発揮する。ラムセス2世は鎧を着て愛馬「テーベの勝利」が引くチャリオットに乗って単騎で出陣。エジプトの神々の加護を受け、たった一人でヒッタイト兵を片っ端から討ち取っていった。ラムセス2世には侍者としてメンナという人物がいたのだが、メンナは腰が抜けて動けなくなってしまったそうだ。そこで、ラムセス2世は馬の手綱を自分の腰につけて、それでチャリオットを操りながら戦ったらしい。ラムセス2世と共に戦ったのは、テーベの勝利とライオン1頭だけだった、とのことだ。」
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「単身でヒッタイト軍を次々と打ち倒していった、というのは誇張されていると思います。さすがに一人はないでしょう。ただ、状況的にはエジプト軍は数で劣っていたことは事実だと思うので、ラムセス2世が少ない味方と共に自らも奮戦してなんとか支えた、というのが実際のところだと思いますね。」
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「エジプトのチャリオットも馭者がいなかったら戦士は戦闘だけに集中できなくなるからな。とはいえ、ラムセス2世自身も奮戦した、というのは事実なんじゃないか、と俺も思うぜ。
さて、ラムセス2世が奮戦している間、エジプト軍の別動隊として動いていた外人部隊が、激戦区となっている野営地に突入してきた。外人部隊はアムルという所に駐屯しており、伝令を受けてすぐに現場に急行してなんとか間に合った。しかし、ヒッタイト軍も予備のチャリオット1,000両を投入して、戦いの決着をつけようとした。激戦が続く中、後続のエジプト軍、プタハ師団とセト師団がようやく戦場に到着した。これで形勢は一気に逆転した。ヒッタイト軍は新手のエジプト軍に攻撃されて挟み撃ちとなり、一気に不利になってついに敗走した。敗走中に、多くのヒッタイト兵がオロンテス川で溺れて死んでしまったという。ヒッタイト軍はカデシュの街には入らず、オロンテス川を渡って退却していった。この時、ヒッタイト軍にはまだ兵数約1万の歩兵部隊が残っていたのだが、この部隊は戦闘に参加することはなかった。」
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「敗走してからのヒッタイト軍の行動は少し不思議ですね。普通なら、自分たちの勢力圏であるカデシュの街に逃げ込みそうな気がします。街に入らないで逃げたのは、カデシュの街も放棄するつもりだったのかもしれませんが、歩兵部隊は残っているので、その判断も悲観的過ぎると思いますね。」
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「確かに、カデシュの街を放棄して逃げたのは、何か他に理由があったからなんじゃないか、と俺は思うが、史料が無いから不明だな。
話を戻すぞ。翌日、ムワタリ2世からラムセス2世に停戦の申し込みがあった。ラムセス2世の側近らは停戦の受諾を薦め、ラムセス2世も同意した。こうして、エジプト軍はエジプトに帰還していった、というのがカデシュの戦いの一連の流れだな。
カデシュの戦いの後、両軍ともに自軍が勝利したことを喧伝したが、この内容をあらためて見ると「引き分け」と見るのが妥当なんじゃないか、と思うな。」
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「カデシュの戦いをアニメーションで解説している動画(日本語)がYoutubeにありましたので、紹介しておきますね。」




カデシュの戦いの後 平和友好条約

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「さて、カデシュの戦いの経緯は上の通りなのだが、これだけなら古代史の重要トピックとして残らなかったかもしれない。カデシュの戦いが高校世界史にも登場するのは、この後しばらくしてからエジプトとヒッタイトが平和条約を結んだ、という記録が残っているからなんだ。というわけで、カデシュの戦いの後のエジプト・ヒッタイト両国の動きを見てみよう。
まず係争地点となったカデシュだが、この辺り(現在のレバノン・シリアなど)はエジプト人ともヒッタイト人とも違う民族の領域なんだ。しかし、エジプトやヒッタイトといった大帝国が隣接しているため、両国の勢力争いが生じるエリアにもなった。このあたりの都市の指導者らは、時にヒッタイトに付き、時にエジプトに付くなど、状況に合わせてどちらに味方するかを選んでいた、という状況だっわけだ。
カデシュの戦いの後、ヒッタイトのムワタリ2世はアムルの街の支配者であるベンテシナを解任し、アムルの街をヒッタイト勢力圏に取り込んでしまった。これにラムセス2世は怒る。なぜなら、アムルはエジプトの勢力圏であるはずだ、と考えていたからな。こうして、エジプトとヒッタイトの争いはおおよそ15年くらい続いていた。」
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「ただ、15年間ずっとエジプトとヒッタイトの戦闘が起きていたわけではないようです。というのも、エジプトはリビアの遊牧民という別の敵がいましたし、ヒッタイトには東にカッシート王国という大国がいました。お互いに別の敵を抱えていたわけですね。その間に、ヒッタイトのムワタリ2世は亡くなり、ヒッタイトでは後継者争いが起こります。結果、ムワタリ2世の後継者としてハットゥシリ3世が即位し、争いに敗れたウルヒ・テシュブ(ムワタリ2世の庶子でハットゥシリ3世の甥にあたる)はエジプトに亡命しました。ハットゥシリ3世はウルヒ・テシュブの身柄引き渡しを要求しますが、ラムセス2世はこれを拒否。両国間に再び緊張が走りますが、ハットゥシリ3世はエジプトよりも東のアッシリアを脅威と考え、エジプトとは和平を結ぶことを選びました。
ラムセス2世の統治21年目、エジプト・ヒッタイト間で平和友好条約が結ばれました。この平和条約は、ヒッタイトでは粘土板に記録されてヒッタイトの首都・ハットゥシャに保管され、エジプトではパピルスに記録されてペル・ラムセスの公文書として保管されたほか、カルナック神殿の壁面にも刻まれました。平和条約の内容は
1.エジプト、ヒッタイト間の武力行使を永久に停止し、相互に譲歩すること。
2.エジプトはアムル支配を断念する代わりに、ウピの街を支配する。また、フェニキアの港に対する権利が強化される。
3.両国の王権を保護し、逃亡者の引き渡しの取り決めや難民の赦免などの取り決め。
となっています。
カデシュの戦いとその後の和平について、エジプト考古学者の河江肖剰氏がYou tubeで説明しています。とても面白いので、是非見てみてください。

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「後の時代になって、ハットゥシャの発掘調査が行われた時、この平和条約の内容を記した粘土板が発見されたました。これで、エジプト側の記録とヒッタイト側の記録の一致が見られ、カデシュの戦いとその後の平和条約が確かに結ばれた、という証拠になったわけですね。」
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「この粘土板のレプリカが作られ、国際連合本部ビルに飾られている。国際社会の平和の象徴となっているわけでだな。」

Istanbul - Museo archeol. - Trattato di Qadesh fra ittiti ed egizi (1269 a.C.) - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg
Attribution, リンク

↑イスタンブル考古博物館に保管されている粘土板

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「この後、紀元前1200年ごろにヒッタイトは「海の民」などの外敵の侵入などで滅亡してしまう。いわゆる前1200年のカタストロフで滅んでしまったわけだな。一方、エジプトは前1200年のカタストロフは耐えしのいだものの、前1070年頃に新王国は再び分裂してしまい、しばらくは分裂状態が続いた。第3中間期と呼ばれる時代だ。その後は、一時的にエジプト人によるエジプト王朝が成立したりもするが、激しいオリエント世界の興亡に巻き込まれて外国支配を受けるようになり、エジプトはオリエント世界の一部としての歴史を歩むようになる。この時代は末期王朝時代と呼ばれている。
エジプト・ヒッタイトの平和友好条約が永遠でなかったのは残念だが、異なる民族が勢力争いを起こして戦争に至ったとしても、人類はその後平和条約を結んで共に共存できたという事実は、現代を生きる我々にも希望を持たせてくれるんじゃないか、と思うぜ。」



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参考文献・Web site

面白いほどよくわかる古代エジプト 著者:笈川博一 



ラメセス2世
 著者:ベルナデット・ムニュー 訳:南條郁子