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しのぎを削る列強 詳細篇

イタリア統一運動(リソルジメント)

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「さて、今回は「しのぎを削る列強」の「詳細篇 イタリア統一(リソルジメント」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人はこちらの本編から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」

<目次>
1.カヴールの登場
2.プロンビエールの密約 1858年7月21日
3.イタリア統一戦争 1859年3月〜7月
4.中部イタリアの併合とサヴォイア・ニースの割譲 1860年3月〜4月
5.ガリバルディのシチリア遠征 1860年5月〜


1.カヴールの登場


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「本編で見たように、19世紀後半になって、ようやくイタリアは統一国家となったわけだが、ここでは、ローマ共和国が崩壊した後のイタリア統一運動(リソルジメント Resorgiment)の詳細を見ていこう。イタリア統一運動の後半の主役を担ったのは、なんといってもカヴールだな。」

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カヴール肖像  制作者:Francesco Hayez 制作年代:1864年

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「「カヴール」という名前で日本では教科書にも載っていますが、カヴールの本名は「カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ ベンソ(Camillo Paolo Filippo Giulio Benso)」といいます。最後の「ベンソ」がいわゆる名字で、カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオが名前ですね。」
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「長すぎて覚えられないよな。「カヴール」というのは、彼の爵位である「カヴール伯爵」から来ているんだ。ちなみに、英語版Wikiでは彼のことを"Cavour"と表記しているので、おそらく英語圏でもカヴールという呼び名で定着しているようだぜ。なので、ここでも彼のことは「カヴール」と記載するぜ。
まずはカヴールの生い立ちから見ていこうか。カヴールが生まれたのは1810年8月10日。当時、ナポレオンのフランス帝国領であったトリノで生まれた。父はカヴール侯爵のミケレ、母はアデーレで次男として誕生した。いわゆる名門貴族の生まれだな。だが、次男坊ということでトリノ士官学校に入って卒業し軍隊に入ったのだが、自由主義思想を持ってフランス王に目を付けられてしまい、1831年(この年21歳)に軍を退役した。
除隊後、カヴールはイギリス、フランス、スイスなどを旅して当時の先進的な自由主義政策などを目の当たりにして大きな影響を受けた。帰国後は、小さな村の村長として大農場を経営したり、銀行や鉄道会社の設立を行うなど、経済分野で経験を積んでいった。」
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「意外なことに、若い頃は政治にはあまり関係が無かったんですね。」
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「カヴールが政治的なことに着手したのは、1847年(この年37歳)に創刊した『リソルジメント』からだった。リソルジメントの主張は、憲法制定と議会選挙の実施だった。おそらく、イギリスのような立憲君主政をモデルにしたんだろうな。
転機はすぐに訪れた。1848年(この年38歳)のフランス二月革命の余波でサルデーニャ王国はオーストリアに宣戦布告。この影響で、サルデーニャ王国も選挙に基づく議会制を導入した。カヴールはこれに立候補した。落選したものの、その後の補欠選挙で当選し、サルデーニャ王国議員として政治家としてのキャリアがスタートした。」
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「歴史に残る政治家のわりには、政治家キャリアのスタートが意外と短いですよね。もちろん、キャリアが長いから素晴らしいことができる、というわけではないですが。。」
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「カヴールは若い頃の経営者としての経験を活かし、早くも1850年には農商務大臣に就任している。1852年(この年42歳)には首相に就任し、産業振興やイギリス・フランスとの低関税による貿易促進などに取り組み、中小国にすぎないサルデーニャ王国の国力を伸ばしていった。ただ、国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とはあまり仲が良くなかったようだな。」
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「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は保守的な人柄で、カヴールが進める自由主義的政策や、対教会政策などでは対立することが多かったそうですね。特に、修道院を解散させて土地を国有化するという政策については、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と司教たちが共謀して法案可決を妨害し、これに怒ったカヴールが辞意を表明する、という事件が起こりました。しかし、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はカヴールの代わりの首相を見つけることができず、やむを得ずカヴールを再起用。修道院解散も可決された、という事件がありました。カヴールは1859年のヴィラフランカの和約に抗議して一時辞任していた期間以外は、全期間首相に就任していたんですよね。これはやはり、カヴールの手腕が評価されてのことなんでしょうね。」

Tranquillo Cremona - Vittorio Emanuele II
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 制作者:Tranquillo Cremona 制作年代:1860-70年代

2.プロンビエールの密約 1858年7月21日

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「さて、次の話はサルデーニャ王国がイタリア統一戦争に乗り出すための重要な前提条件となったプロンビエールの密約(英語:Plombieres Agreement)を見ていこう。プロンビエールの密約は本編でも説明されているので、概要の確認はそちらでしてもらおう。
まず、1858年7月21日、この年48歳になるカヴールはフランス北東部ヴォージュ県にある温泉地・プロンビエールにいたナポレオン3世(この年50歳)と面会した。プロンビエールは、ボナパルト家の私的な保養地だったそうだ。この面会は極秘として扱われていたので、このような場所が選ばれたのだろう。面会場所は、村にある"Pavillon des Princes"(皇子たちの館)という建物だったそうだ。
カヴールは、サルデーニャ王国が単独でイタリア統一を成し遂げるのは不可能、と考えていた。実際、イタリア北部を領有しているのはオーストリアで、1848年の戦争ではサルデーニャ vs オーストリアの戦いになったが、衆寡敵せず敗北している。オーストリアを破ってイタリア北部を奪い取るためには、同盟国が必要だと考えるのも自然な発想だろう。そこで、カヴールが選んだ同盟相手がフランスのナポレオン3世だった。ナポレオン3世は若い頃、青年イタリアに加わっていたこともあり、イタリア統一を支援してくれる、という算段もあっただろうな。
しかし、フランス皇帝となっているナポレオン3世は、タダでは協力してくれない。援軍を出して、サルデーニャ王国の北イタリア領有を認める代償として、サヴォイアとニースをフランスに譲渡することを求めた。サヴォイアはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のサヴォイア家発祥の地であり、これを他国に譲渡する、というのは心理的に難しい決断だったと思われる。ニースは1804年の住民投票でフランス領となっていたが、ウィーン体制発足でサルデーニャ王国領に戻されているので、ここをフランスが求めるのはわりと自然だろう。ただ、ニースはガリバルディの出身地なので、これが後で大問題になるとは、カヴールも予想できなかっただろうな。
取り決めはイタリア北部だけではなく、その他の地域にも及んでいた。まず、トスカーナ大公国は教皇領の一部を加えた中部イタリア王国として、国王はプランス・ナポレオンとすること、南イタリアの両シチリア王国は現状のまま、ということだ。両シチリア王国の現状維持はともかく、中部イタリアにナポレオン家系の王国ができるというのは、イタリア統一という点から見ると受け入れられないようにも思えるな。これが実現した場合、イタリア統一はどうするつもりだったのか、カヴールがどう考えていたのか気になるところだな。」
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「本編では省略しましたが、この時同時にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の娘であるマリア・クロチルデ(この年15歳)とナポレオン3世の従弟で、ナポレオン1世の末弟・ジェロームの子であるナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール ボナパルト(通称プランス・ナポレオン(この年36歳))の結婚も決めていますね。王女と皇帝の従弟の結婚という点も、サルデーニャ側の立場の弱さを示している、と考える人もいるようですね。」
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「それに関しては、この時点でナポレオン3世の嫡出子は2歳になったばかりのウジェーヌだけだったから、政略結婚をするなら親戚にならざるを得ない、という条件があった。それに、この時点でナポレオン3世は50歳だ。皇后のウジェーヌは32歳だが、この二人にさらに子供が生まれるかどうかは微妙なところだ。2歳児の皇太子ウジェーヌもまだ幼い。この時代なら、ほぼ確実に成人するとは言い切れない。この政略結婚は、そこまでサルデーニャに不利だったとは言えないと思うぜ。
余談だが、プランス・ナポレオンとマリア・クロチルデの子孫は現代にも続いている。シャルル・ナポレオン氏とその息子のジャン=クリストフ・ナポレオン氏だ。一部のボナパルティストらの支持を得ているようだな。興味がある人は調べてみるといい。」

Neurdein, Etienne (1832-1918) - Maria Clotilde di Savoia - 1890s recto
マリア・クロチルデ サヴォイア  撮影者:Neurdein, Etienne  撮影:19世紀

Napoleon Joseph Charles Paul Bonaparte painting
プランス・ナポレオン  制作者:Hippolyte Flandrin  制作年代:1860年

3.イタリア統一戦争 1859年3月〜7月

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「領土拡張とイタリアへの進出を狙うナポレオン3世と、イタリア統一を図るカヴールの利害がプロンビエールの密約で調整されると、カヴールは戦争準備に入った。まず、ナポレオン3世の意向により、侵略者として非難されることを避けるために、戦争はオーストリアから攻めさせることにした。カヴールがイタリア北部の都市・モデナで暴動が起こるように扇動して革命を起こさせ、これを鎮圧しようとオーストリア軍が出てきたところを、モデナ保護を理由に攻撃する、という手筈だな。しかし、モデナの扇動は失敗。むしろ、プロンビエールの密約が国際社会に漏れてしまった。
両陣営の緊張が高まる中、1859年3月23日にオーストリアはサルデーニャに対して武装解除の最後通牒を突き付けたが、3月26日にサルデーニャ王国はこれを拒否。翌日の3月27日に戦争の火ぶたが切って落とされた。」
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「両軍の戦力は、『世界各国史15 イタリア史』によると、サルデーニャ王国は義勇兵を含めて6万5000。これにはガリバルディ率いる義勇軍「アルプス猟兵連隊」も含まれています。フランス軍は12万8000。オーストリア軍は20万人を動員した、とのことです。
兵数はほぼ互角ですね。」
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「開戦当初は、サルデーニャ・フランス軍が優勢だった。6月8日には、ナポレオン3世とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はミラノに入城。6月24日にはソルフェリーノの戦いで多くの損害を出しながらも辛勝。敗れたオーストリアは、ヴェローナからマントヴァにかけての要塞を利用して防衛線を構築した。
ここで、ナポレオン3世は一転して講和を考え始めた。理由としては、フランス国民はこの戦争を支持していないこと、ソルフェリーノの戦いで大きな損失を出していること、戦争の長期化がプロイセンの介入を招く恐れがあること、中部イタリア諸国のサルデーニャ合流への動き、などが挙げられているな。7月11日、ナポレオン3世はオーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世とヴィラフランカで会談して講和の予備協定を結んだ。ヴィラフランカの和約だな。その内容は本編でもふれたとおりだ。当初、サルデーニャが目標としていたのは、オーストリアが支配するロンバルディアとヴェネト地方の奪取だったが、ヴィラフランカの和約ではロンバルディアのみを、オーストリアがフランスに割譲し、それをさらにサルデーニャに割譲する、という流れでサルデーニャ領とする、というものだった。カヴールが怒るのも無理はないな。」
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「イタリア統一戦争で特徴的なのは、戦争中に既に中部イタリア諸国が、サルデーニャ王国と合併する動きを見せていることだと思います。『世界各国史15 イタリア史』によると、戦争が始まった3月27日から28日にかけて、フィレンツェ民衆が蜂起してトスカーナ大公のレオポルド2世が国外へ退去する、という事件が起きています。また、6月9日にはパルマで臨時政府が樹立され、6月11日にモーデナ公フランチェスコ5世が国外退去、6月12日にボローニャで民衆が蜂起し臨時政府が発足、などです。特に、トスカーナ大公国では、リカーソリが指導力を発揮してサルデーニャ王国との合併を決定し、5月にはサルデーニャ王国から送られてきた全権大使がフィレンツェに到着して統治を始めています。パルマ公国、モーデナ公国でも同様の流れになり、戦争中にも関わらず中部イタリア諸国がサルデーニャ王国に合流しようとしていました。そのためか、ヴィラフランカの和約には、トスカーナ大公国とモーデナ公国では以前の君主政を維持する、と明記してこの動きを牽制している、とのことです。」
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「この頃には、イタリア統一を望む声が強くなっていたことの証左だろうな。
さて、ヴィラフランカの和約の会議にすら入れてもらえなかったサルデーニャ王国はもちろん怒ったが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はヴィラフランカの和約の追認もやむなしと受け入れたが、カヴールは7月12日に首相を辞任して抗議の意を示している。
こうして、イタリア統一戦争は中途半端なところで終結。イタリア統一の動きはここで一時的に止まったわけだ。」

4.中部イタリアの併合とサヴォイア・ニースの割譲 1860年3月〜4月

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「カヴールの辞任後、後任の首相となったラ・マルモラのもとで、中部イタリア諸国との合併の準備が進んだ。ところが、ナポレオン3世はこの動きに強く反発する。「ヴィラフランカの和約で、中部イタリアは元の君主を復帰させる、と決めたハズ」というわけだな。」
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「最初に約束を違えておいて何を言うか、と思いますが、強国のフランスがそのように言ってきている以上、無視はできないですね。」
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「カヴールは1860年1月に首相に復帰し、ナポレオン3世と交渉。中部イタリアをサルデーニャが併合する代わりに、プロンビエールで約束したサヴォイアとニースをフランスに割譲する、という取引で合意をつけた。ヴェネト地方は獲得できなかったが、代わりに中部イタリア諸国を併合できるので、そこまで悪い話でもないだろう。
こうして、3月には中部イタリア諸国で住民投票が行われ、サルデーニャ王国への併合が確定した。一方、4月にはサヴォイアとニースで同じく住民投票が行われ、こちらはフランスへ帰属することが決まった。
このように、プロンビエールの密約とは違う形でサルデーニャはイタリア統一を進め、フランスは領土拡張を成功させたわけだな。
このあたりの話は政治的な流れでややこしいので、難しい部分だな。」

5.ガリバルディのシチリア・ナポリ遠征

年月 イベント
1860年5月 ガリバルディがシチリア遠征に出発 両シチリア王国を破ってパレルモを占領
1860年7月 20日 ミラッツォの戦いでガリバルディが両シチリア王国軍を撃破
1860年8月 19日 ガリバルディがメッシーナ海峡を越えてカラーブリア上陸
1860年9月 ガリバルディがナポリに無血入城

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「さて、ここからしばらくはガリバルディが登場する。サルデーニャ王国によるイタリア統一が進む一方で、故郷であるニースをフランスに譲渡されたガリバルディは、カヴールに対して激怒したそうだ。」
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「ヨーロッパの国境付近の街って、長い歴史の中で領有国が変わることは珍しくないですよね。ニースは地中海沿岸でフランス領も近いから、ニースがフランス領になること自体、そこまで変な話ではないのではないか、と思います。ガリバルディが激怒した、っていうのは本当かどうかは疑問ですね。」
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「その辺は、もう少し詳しい史料がほしいところだな。1860年4月、シチリア島でも両シチリア王国の支配に対抗する民衆の一部が武装蜂起した。ガリバルディは、シチリア出身の革命運動家であるフランチェスコ・クリスピから蜂起への参加を求められる。しばらく考えた結果、ガリバルディは「イタリアとヴィットーリオ・エマヌエーレ」というスローガンを掲げて遠征を決意した。5月6日の未明、ガリバルディ率いる遠征隊はジェノバの港を出港。11日にシチリア島西岸のマルサーラに上陸した。後の時代に、この時上陸した人数が1089人と特定されたため、この部隊は「千人隊」、あるいは「赤シャツ隊」と呼ばれているな。ただ、これらは後世に名付けられた名前だ。当時の名前は、イタリア統一戦争の時と同じく「アルプス猟兵連隊」だ。内訳は、イタリア統一戦争時と同じメンバーが約9割、残りはシチリア島出身者だったそうだ。
5月14日、ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の名におけるシチリア島の独裁権を宣言すると、翌日の5月15日、カラタフィーミの戦いで両シチリア王国軍を撃破。5月27日にはパレルモ市街に攻め込み、ガリバルディ軍に呼応した市民ら合流して、両シリア王国軍と激しい市街戦を繰り広げた。数日後、防衛を諦めた両シチリア王国軍は一時休戦を申し入れてパレルモを退去することになった。
こうして、ガリバルディは出発から1カ月弱でシチリア島の重要拠点を落としたわけだな。」
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「英雄・ガリバルディの戦績を飾る鮮やかな勝利ですね。両シチリア王国は小国ではありますが、それでもヨーロッパの一国です。わずか1カ月の戦闘でその軍から拠点を奪い取るというのは、並の軍事指揮官には難しいでしょうね。」
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「シチリア島を押さえたガリバルディは、評判の悪い製粉税を廃止し、ガリバルディ軍に協力した者にはくじ引き無しで共有地を配分するなどの政策をうって民衆の支持を取り付けようとした。しかし、ここから状況は混み入ってくるんだが、詳細篇なのでそこも見ていこう。
ガリバルディの政策に、多くの農民は喜んだ。彼らは一刻も早く土地を配分するように土地持ちの貴族らに迫り、中には実力行使に出る者がいた。ガリバルディは、このような過激な行動に出る農民は反乱者として厳しく取り締まった。ガリバルディがこの時目指していたのは、サルデーニャ王国との合流によるイタリア統一だからな。土地問題に絡む農民反乱は社会を混乱させる不安要素だったんだろう。
『世界各国史15 イタリア史』で著者の北原敦氏は、この時のエピソードとしてイギリスの英雄・ネルソン提督を輩出したネルソン家の所領の話を紹介している。エトナ山麓にあるブロンテ村にネルソン家の所領があったのだが、8月4日〜10日間に、ここで反乱を起こした農民ら5人は即決裁判で処刑され、その他関与した者達にも実刑が下されたそうだ。
さて、ガリバルディの遠征の話を続けよう。ガリバルディ軍は7月20日にメッシーナ近くのミラッツォの戦いで両シチリア軍を再び破った。敗れた両シチリア軍はメッシーナ海峡の守りを固め、ガリバルディ軍がイタリア半島に上陸するのを防ごうとしたが、8月19日にガリバルディ軍はスキをついてイタリア半島に上陸。そのままナポリに向けて進軍し、たいした抵抗も受けないまま9月7日に両シチリア王国の首都・ナポリに無血入城した。この時点の両シチリア王・フランチェスコ2世(この年24歳)は約1年前の1859年5月22日に即位したばかりだったが、突如現れたガリバルディのためにナポリを追われる羽目になったわけだな。ガリバルディのナポリ入城の前日の9月6日にガエータの要塞に移動し、両シチリア王国軍約5万がナポリの北を流れるヴォルトゥルノ川に布陣した。」

6.サルデーニャ王国による統一 1860年9月

年月 イベント
1860年9月 11日 サルデーニャ王国軍が教皇領に侵入して南下を開始
1860年10月 1日 ヴォルトゥルノ川の戦い
1860年10月 21日 シチリアとナポリでサルデーニャ王国への併合を問う住民投票 賛成多数で可決
1860年10月 26日 テアーノの会見
1860年11月 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がナポリ入城。ガリバルディの独裁解消され、カプレラ島に戻る
1861年1月 27日 総選挙実施
1861年2月 15日 ガエータ要塞のフランチェスコ2世がローマに亡命
18日 トリーノで新議会開会
1861年3月 14日 下院がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア国王とする議決
17日 イタリア王国成立
1861年6月 6日 カヴール急死(51歳)

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「ガリバルディの快進撃に焦ったのは、カヴールだった。ガリバルディとという、敵とも味方とも判別がつかない謎の軍人が、わずか3カ月で両シチリア王国を滅ぼしてしまったわけだからな。しかも、ガリバルディ軍はローマまで進軍するつもりでいる。ローマには、教皇を守るという名目でフランス軍が駐留していた。もしもガリバルディ軍とフランス軍で本格的な戦闘が始まったら・・・カヴールが一番恐れたのはこれだった。」
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「この中途半端な時点で、フランスが敵に回るのはイタリアにとって良くないですよね。」
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「カヴールはナポレオン3世の同意を得たうえで、9月11日にサルデーニャ王国軍3万5000を「国境紛争」を口実にサン・マリーノ共和国付近から教皇領に侵入した。ガリバルディ軍がローマに進軍するのを妨害する目的だな。一方、ガリバルディ軍はこの頃、総勢約5万にまで膨れ上がり「南部軍団」と名乗っていた。10月1日にはヴォルトゥルノ川で両シチリア王国の残党と戦闘が始まったが、これはすぐに決着がつかなかった。
そんな中、事態は政治的な面で大きく動き始めた。南イタリア独裁代行の地位にあったパッラヴィチーノは、住民投票を開催してサルデーニャ王国への合流を問う、と主張しこれが通ってしまった。10月21日にシチリア、ナポリで住民投票が実施され、賛成多数でサルデーニャ王国への合流が決まってしまった。」
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「これはガリバルディにとって、意外にも早い話だったでしょう。ローマにも攻め込むつもりだったのに、自分が制圧した土地の民衆はサルデーニャ王国によるイタリア統一に向けて、もう舵を切ってしまったわけですからね。ガリバルディは、戦闘を続ける正当性を完全に失ってしまったわけですね。」
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「そんな状況で行われたのが、10月26日のテアーノの会見だな。ガリバルディによる征服地の献上、という美談で語られることが多いイタリア統一の最後を締めくくるイベントだが、『世界各国史15 イタリア史』で北原敦氏は
ガリバルディは住民投票の結果に従ったにすぎず、会見も冷ややかなものだった」と記しているな。」
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「本編でも紹介した絵とかと比べると、実態は随分違ったんでしょうかね。ただ、当時の複雑な情勢を考えると、少なくともサルデーニャ王国の立場では、ガリバルディはライバル的な存在だった、というのはわかります。そう考えると、冷ややかな対応というのもわかりますね。」
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「実際、テアーノの会見以降の流れも、仲が良くなさそうなことが垣間見える内容だ。11月7日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はナポリに入城し、ガリバルディの独裁権は解消された。ガリバルディは、シチリア・ナポリの統治権を1年間認めるように頼んだが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はこれを拒否。2日後の11月9日には自分の家があるカプレラ島に帰って行った。また、ガリバルディの指揮で戦った南部軍団は解散となった。ガリバルディの遠征は、短い期間の間に大きな政治的変化を起こして終わったわけだ。
これで、サルデーニャ王国によるイタリアほぼ統一は成し遂げられることになった。11月4日にはマルケとウンブリアで住民投票が行われ、これらもサルデーニャ王国への併合が決まった。旧シチリア王国のフランチェスコ2世とその軍はガエータ要塞に立てこもって1861年2月まで抵抗を続けたが、ついに諦めて亡命していった。
こうして、ほぼ統一されたイタリア王国が誕生したわけだったが、実質的にはサルデーニャ王国がイタリアをほぼ統一したわけだ。これに伴って、新国家・イタリア王国はサルデーニャ王国の続きとされた。まず、1月に総選挙が実施されて議会が首都のトリーノで開催されたが、この議会はサルデーニャ王国議会からの続きで第八期議会とされた。第一期ではない、ということだな。イタリア王となったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も、「1世」ではなく「2世」のままだ。イタリア王としては、初のヴィットーリオ・エマヌエーレなので当然1世となるべきなのだが、彼はあえて「2世」を使い続けた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にとっては、あくまでサルデーニャ王国を継承している、という意識だったのだろう。
そして、最後にカヴールの死について。3月23日にイタリア王国内閣が成立し、カヴールは首相に就任したんだがそ、それから2カ月ほど経った6月6日、急死した。51歳になる年だった。死因は慢性のマラリアではないか、と推定されている。サルデーニャ王国首相として、大国と交渉しながらサルデーニャ王国によるイタリア統一を進めたカヴールの功績は見事なものであり、「神がイタリア統一のために地上に遣わした男」という異名が付けられている。」
big5
「その死のタイミングがまたピッタリですよね。イタリア王国成立の直後、という歴史的大イベントの後、間もなく亡くなってしまうと、「そのために生きてきた男」と思われても不思議ではないですよね。個人的には、イタリア王国の首相となったカヴールが、その後どのようにイタリアの舵取りをしていくのか、見てみたかったのですが・・・残念です。」


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参考文献・Web site
・『世界各国史15 イタリア史』北原敦 編 山川出版社
2008年8月10日第1版1刷 印刷 2008年8月25日 1版1刷 刊行