印紙税法



国が効率よく税金を集める方法の一つに「印紙税」があります。現代日本でも、一定金額以上の契約書には、規定額の印紙を貼らなければならない、と定めています。ちなみに、印紙を貼らなくても契約自体は有効ですが、税務署にバレると追徴課税となります。
イギリス本国は七年戦争に勝利したものの、その財政状態はかなり厳しかったようです。財政改善のためにどうするか?答えの一つは、植民地アメリカの課税強化でした。
印紙税法は、1765年3月22日にイギリス本国議会が制定しました。この法律は新聞、公文書、証書、手形など、植民地のあらゆる印刷物に所定額の収入印紙を貼ることを命じています。その収入で、駐屯軍費用と密貿易取り締まり費用にあてることが狙いだったそうです。これは、13植民地全体の商人、農民、漁民、弁護士、出版業者、牧師などあらゆる階層、職業に影響が及ぶものであったにも関わらず、植民地議会の同意を得ていないということから、イギリス憲法に保障されている植民地の権利を無視するものとして「代表なくして課税なし」という言葉に集約される広範な反対運動を引き起こしました。反対運動は植民地議会や各地の反対決議、9植民地代表による印紙税法会議開催、街頭デモ、印紙指定販売人の襲撃、イギリス製品の不買運動などの形をとり、イギリス本国でも反対運動が起こったため、1766年3月に撤回されます。
印紙税法反対運動の中で活躍した人物の一人が、パトリック・ヘンリーでした。バージニア植民地議会議員に当選した弁護士のパトリック・ヘンリー(29)は、同年制定された印紙税法に反対決議案を提出して雄弁をふるい、一躍反英運動の指導者となったそうです。
ベンジャミン・フランクリン(59歳)は、イギリス議会で植民地人の立場を証言しました。
また、アダムズ・サムエル(43歳)は、印紙税法に反対する民衆の反対運動を「自由の息子たち」と呼ばれた組織とし、マサチューセッツ湾植民地の特権的支配層に対する政治闘争を指導しました。アダムズ・サムエルは1722年9月27日、ボストンにて誕生。第2代大統領ジョン・アダムズのいとこです。

このように印紙税法は、制定後すぐに植民地アメリカの反発を招き、1年後には廃止される、ということで決着しました。これにより、植民地アメリカは、イギリス本国の不当な政策に反対し、自分たちの権利を取り戻すことができる、という自信をつけた、と考えられています。一方、本国イギリスがこれだけで引き下がるはずもなく、新たなる課税を考えます。

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