Last update:2022,May,21

源平合戦 詳細篇 頼朝と義経の会見

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「さて、今回は「日本史 武士の台頭 源平合戦」の「詳細篇」いうことで、本編では省略した頼朝と義経の会見について、深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人は、まずはこちらの本編、から見てくれよな。」
big5
「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」


<目次>
1.概要
2.『吾妻鏡』の記録
3.『延慶本 平家物語』の記録

現代作品における「頼朝と義経の会見」

『鎌倉殿の13人』


1.概要

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「まず、歴史漫画にもよく出てくる「頼朝と義経の会見」について概要を確認しておこう。
1180年、奥州の藤原秀衡の元に身を寄せていた源義経は、異母兄の源頼朝が平家打倒の兵を挙げたと聞き、これに加わろうとして奥州から鎌倉へ向かった。富士川の戦いで平家軍が無残な不戦敗を喫した後、義経は頼朝と黄瀬川で会った。二人は、昔話に花を咲かせ、涙を流して共に父・源義朝の仇を討つべく、平家打倒を改めて誓った。
こんなかんじに書かれることが多いよな。」
big5
「源平合戦では、よく描かれるシーンですね。ただ、冷静に考えてみると、いろいろと疑問が湧いてくることも事実です。まず、1180年時点で頼朝は満33歳、義経は満21歳になります。二人が離れ離れになったと考えられるのは1160年(平治元年)の平治の乱で源氏が大敗した時です。この時、頼朝は満13歳ですが、義経は満1歳の赤ちゃんです。頼朝は義経のことを覚えていたとしても、義経は頼朝の記憶は無いでしょう。それ以来、20年ぶりの再会(もしかしらた初対面?)なわけですから、お互いの顔はわからなかったでしょうね。そんな二人が、スムーズに会うことができたんでしょうか?という疑問を持つ人も多いと思います。」
small5
「うがった見方をすれば、実は義経は偽物なんじゃないか、とか考えられそうなことでもあるしな。というわけで、ここでは「頼朝と義経の会見」が歴史書にどのように記録されているのか、を見ていこう。」

2.『吾妻鏡』の記録

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「鎌倉幕府と北条氏の歴史書『吾妻鏡』の記載を見ていこう。吾妻鏡の1180年10月21日、富士川の戦いの翌日だな、追撃を主張する頼朝が千葉常胤らに反対されてやむを得ず追撃を諦め、黄瀬川の陣に帰った、という話の後に、2人の会見の話が始まる。概要は、以下のようになる。
「今日、御旅館に来て鎌倉殿と謁見したい、という者がいた。土井実平(生年不詳)、土屋宗遠(この年52歳?)、岡崎義実(この年68歳)は怪しんで通さなかったが、頼朝がこれを知ると「年齢からして奥州の九郎ではないか」と考え、会ってみたら義経であった。昔話をして懐古の涙を流し、かつて、後三年の役で出陣した兄の源義家を追って、官職を辞してまでして救援に向かい、敵を破った新羅三郎義光(源義光)のようだ、と仰せられた。
義経は義朝の死後、一条長成の扶持を受け、出家するため鞍馬寺に登った。成人するにあたり、会稽の恥を雪ごうと自ら元服し、秀衡を頼って奥州に向かったものである。頼朝の挙兵を聞き、馳せ参じようとしたものの、秀衡によって抑留されていたが、密かに館を脱出した。秀衡は後から佐藤継信佐藤忠信兄弟を供として送り出した。」

というかんじだな。
『吾妻鏡』では、義経の来訪は吉事として記録されているな。後三年の役で兄・義家の戦に参陣した弟・義光の例ようだ、ということでかなり好意的に記録している。」
big5
最初は、土井実平らに怪しまれてお目通りさせてもらえなかったが、頼朝は「年齢からして義経ではないか」と推察して会ってみた、と書かれています。最初は怪しまれた、という部分がいろいろ想像できますよね。そもそも、頼朝はもちろん、頼朝に従った坂東武者も義経の顔は知らないでしょうから、怪しまれて当然です。刺客だったら大変ですからね。ただ、頼朝が「義経かもしれない」と判断したのは、おそらく義経が自分自身を証明するために伝えた他の話なども総合しての判断だったのではないか、と思います。」
small5
「そうだな。『吾妻鏡』の記述からすれば、そのように考えるのが妥当だろうな。」

・藤原秀衡の態度
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「もう一つ、気がかりな記述がある。義経の出発に対する、藤原秀衡の態度だ。『吾妻鏡』では、頼朝挙兵の報せを聞き参陣しようとする義経に対し、秀衡は抑留した、とある。そのため、義経は密かに脱出して出発した、という経緯になっていることだ。秀衡は、後から佐藤兄弟を義経の家来として送って、追認したかのようなかんじになっているが、当初は義経の鎌倉行きには反対していた、というのは、いろいろ考えるところがでてくるよな。」
big5
「『吾妻鏡』の記述に基づいて考え見ると、当時の秀衡の心境として考えられるのは
」 @秀衡は義経が源氏に加わったことで、源平争乱に巻き込まれるのがイヤだった。義経参戦がきっかけとなって頼朝に味方する流れになるのもイヤだし、ましてや、源氏が敗れて平家が勝利した場合、義経を参戦させたことを理由にして平家から攻撃される恐れがある。
A秀衡は義経を奥州藤原氏の為にも手元に置いておきたかった。理由は、義経の才能を見抜き、その才能が自国の外に出るのを恐れた、あるいは単純にお気に入りだったので手元に置いておきたかった、など。
というところでしょうかね。」
small5
「そんなところだろうな。実際、源平争乱が熾烈になっていく中でも、奥州藤原氏は中立を通している。義経が頼朝に元に行くことで、奥州藤原氏の安泰をかき乱すことはしたくなかったんだろう。しかし、義経は脱出してしまった。佐藤兄弟を送り出したのは、単純に義経を支援したかったからだけではなく、鎌倉方の内情を探る密偵としての役割も与えていたのだろう、と思うぜ。」
big5
「その可能性はありますね。義経の家来の中で有名な人物の中で、佐藤兄弟だけは藤原秀衡という大身の主君がいますからね。佐藤兄弟は、秀衡から何かしらの意図を言い含められて義経に従っている、と考えるのが妥当でしょう。そして、おそらく頼朝や鎌倉の主だった人物も、そう考えたのではないか、と思いますね。」
small5
「後に義経と奥州藤原氏が滅ぶのも、これが原因の一つだったのかもしれないな。まぁ、これは推測の域を出ないが。。」

・義経の家来
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「ちなみに、義経の家来として名前が記載されているのは、ここでは佐藤継信・忠信兄弟だけだな。有名な弁慶などは名前がない。「弁慶は架空の人物なのではないか?」という説の根拠の一つだな。」
big5
「名前が無いから存在しない、とも言いきれないですけどね。武士の身分と言えるのは佐藤兄弟だけで、弁慶やその他の義経の家来は武士とはいえないので、取るに足らない従者として記録されなかった、ということも考えられます。ただ、やはり「歴史書に名前が無い人物」を、実在したと証明するのはなかなか難しいですね。」

3,『延慶本 平家物語』の記録

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「次は『延慶本 平家物語』の記述を見てみよう。「延慶本」は、いくつか現存している「平家物語」の種類の一つだ。一口に「平家物語」と言っても、現在に至るまで細かい部分や表現が変化して、いくつかのバージョンが存在しているんだ。延慶本は、そのバージョンの中でも、最も古いモノなのではないか、と考えられている。
『延慶本 平家物語』では、「10月22日に頼朝軍18万5000騎が足柄を越えて黄瀬川に陣取って兵の数を記録した」という記述の後に、平家の陣に送った使者が斬られたという話が入って、その後で唐突に九郎義経が加わった、書いている。頼朝と義経は、昔のことを思い出して涙ながらに語り合った、と記載されている。その後、24日に「富士川の戦い」の記述がある、という内容だ。」
big5
「『吾妻鏡』と違って、義経が来たのは22日〜24日の間で、富士川の戦いよりも前なんですね。状況的にはだいたい同じですが、富士川の戦いの前に来たのか後に来たのか、が異なるわけですね。細かい違いと言えば違いですが、戦闘の前と後では状況が違いますから、けっこう重要な問題ですね。」
small5
「そうだな。これは俺の個人的な推測だが、おそらく『延慶本 平家物語』は、吾妻鏡から「頼朝と義経の会見」の話を持ってきて加えたのではないか、と思う。義経を得たことで、頼朝は平家を倒す力を得た、という印象を聞き手により印象付けるためには、「義経登場」のシーンを話の中に設定したほうがわかりやすい。義経と頼朝の会見は、ちょうどいいネタになるわけだ。おそらく、どこかの時点で誰かが
「『吾妻鏡』に出てくるこの話、脚色して加えればもっと面白くなるんじゃない?」
なんて思って上手い具合に付け加えた、という経緯なんじゃないか、と思うぜ。残念ながら、証拠になるものは無いのだが・・・」」

・義経の家来
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「『延慶本 平家物語』にも義経の家来については触れられていない。」

『鎌倉殿の13人』

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「さて、上記のような記録が残っている「頼朝と義経の会見」は、現代の時代劇作品では様々に描かれている。2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、このように描かれている。

富士川の戦いの後、御家人たちが兵糧問題などのために帰りたいと言っているにも関わらず退却した平家軍追撃を主張する頼朝に対して、北条時政が「御家人たちが命がけで戦えるのは、自分の所領がかかっているからだ。所領を持たない佐殿にはわからねぇ!」と啖呵を切ったの受けて、頼朝も追撃を断念。その一方で義時には「時政を見直した」と褒めた。そこに、まったく空気を読まずに義経が登場し「兄上!」と今にも抱き着かんばかりに迫ってくる。義時は怪しみ「何か身の証になるものは?」と聞くと さらに、秀衡からの手紙を渡した。
感無量の義経と頼朝は、共に平家を倒して父の仇を討つ、という思いを強くした。
という描き方だな。
なお、この対面の時は登場しなかったが、義経は秀衡に見送られて出発する際に、武蔵坊という僧形の大男と他に数人の従者を連れている。」






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参考文献・Web site


全譯 吾妻鏡 第1巻
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