Last update:2022,Jul,2

世界大戦と平和への試み

青年トルコ革命 (Young Turk Revolution)

あらすじ

big5
「今回のテーマは1908年に発生した青年トルコ革命です。名前の通り、オスマン帝国で起きた革命ですね。」
名もなきOL
「あんまり聞いた覚えがないですね・・・。「青年トルコ革命」はどんな革命だったんですか?」
big5
「オスマン帝国で、時代遅れになっているスルタン専制政治を打倒するために、青年将校らが挙兵。ミドハト憲法を復活させ、翌年の1909年にはスルタンのアブデュルハミト2世を退位させた革命です。青年トルコ革命により、オスマン帝国は再び立憲君主制となったわけですね。しかし、オーストリアやイタリアなどのヨーロッパ列強が革命騒ぎの中で火事場泥棒のように戦争を仕掛けて領土を奪ったり、バルカン半島では民族運動が盛んになって、ブルガリアが独立するなど「帝国主義時代」らしい、周辺諸国の侵略によって、オスマン帝国の領土はまたしても縮小してしまいました。そして、オスマン帝国は第一次世界大戦に臨むことになるわけです。
ちなみに私の覚え方は
ミドハト憲法戻しとくれや(1908)青年トルコ
です。青年トルコ革命の主要目的の一つを使っているのがポイントです。

と、あらすじはこれくらいにしておいて、本編に入りましょうか。まずは、いつもどおり年表から見ていきましょう。」

年月 オスマン帝国のイベント 世界のイベント
1876年 ミドハト憲法制定(アジア国家最初の拳法)
1877年 露土戦争 開戦
1878年 露土戦争を理由に議会を解散 ミドハト憲法停止
1905年 日露戦争で日本がロシアに勝利
1908年 オスマン帝国の青年将校らが挙兵 青年トルコ革命勃発
オーストリアが混乱に乗じてボスニアとヘルツェゴビナを併合
ブルガリア自治公国が独立
1909年 オスマン帝国スルタン アブデュルハミト2世が退位させられる
1911年 イタリア=トルコ戦争 アフリカ北岸のキレナイカ・トリポリ方面(現在のリビア)を失う

青年トルコ革命 直前の状況

ミドハト憲法 制定するもすぐ停止

big5
「さて、青年トルコ革命で重要なポイントはミドハト憲法の復活です。まず、革命前はどんな状況だったのかを確認しましょう。」
名もなきOL
「復活、っていうことは、以前はあったけど当時は無くなっていた、っていうことですよね?」
big5
「そのとおりです。ミドハト憲法が最初に制定されたのは1876年です。ちなみに、アジア諸国で最初に制定された憲法になります。余談ですが、日本の大日本帝国憲法が1889年で2番目ですね。ミドハト憲法は、オスマン帝国の近代化政策の目玉の一つでした。憲法に基づいて議会も設置され、オスマン帝国は皇帝(スルタン)の専制政治ではなく、立憲君主制という近代国家の形を整えたわけです。
と・こ・ろ・が、です。翌年の1877年に南下を狙うロシアと露土戦争が始まると、スルタンのアブデュルハミト2世によって非常事態ということでミドハト憲法は停止に追い込まれ、議会も解散させられてしまったんです。そして、戦争が終わった後も、ミドハト憲法は停止されたままでした。つまり、一時的に立憲君主制となったものの、わずか1年少々で元のスルタン専制政治に戻ってしまったわけですね。しかも、アブデュルハミト2世は、革命運動や政敵を厳しく弾圧。処刑された者も多かったので、「赤い流血のスルタン」という異名を付けられて恐れられていました。」
Sultan Abdulhamid
アブデュルハミト2世 撮影者:不明 撮影年:1899年1月2日
名もなきOL
「時代の流れに逆行していたんですね。」
big5
「そんな中、1905年に日露戦争でアジアの国家・日本がオスマン帝国の宿敵・ロシアと戦ってこれを破った(しのぎを削る列強 日露戦争 参照)、というニュースが飛び込んできました。アジアの国家が、我らが宿敵であるロシアと戦って勝利した、というニュースに、トルコの軍人らは喜び、そして日本から学ぶようになりました。オスマン帝国と日本を比べ得ると歴史も地理的な面も、いろいろな点が違っていますが、オスマン帝国と異なり、日本は憲法を制定して議会を開設した近代国家となっている、という点が注目されるようになりました。」
名もなきOL
「なるほど、それでミドハト憲法の復活を、という話になっていったわけですね。」

青年トルコ革命 経緯

big5
「上記のような背景がある中、ミドハト憲法復活と立憲君主制の確立を目指す「青年トルコ」(正式名称は「統一と進歩委員会」 「青年トルコ」はヨーロッパで"Young Turk"と呼ばれていたのを日本語訳した名称)」の活動が盛んになってきました。青年トルコはマッツィーニの青年イタリアとは異なり、秘密結社だったのですが1908年には大きな勢力となり、7月にはバルカン半島の諸都市で武装蜂起しました。青年トルコ革命の始まりです。
スルタンのアブデュルハミト2世は鎮圧軍を派遣しましたが、なんとこの鎮圧軍が説得されてしまって革命軍に寝返ってしまう、という事件もあり、アブデュルハミト2世は鎮圧を断念。7月23日に革命軍の要求を呑んで、ミドハト憲法の復活を認めました。それから間もなく、議会も開設されて、オスマン帝国は2回目の立憲君主国家となったわんです。」

Greek lithograph celebrating the Ottoman Constitution
青年トルコ革命によるミドハト憲法復活を祝うトリグラフ  制作者:Sotiris Christidis 制作年:1908年

名もなきOL
「お〜、革命は成功したんですね!」
big5
「その後、フランス革命の時と同様に、革命側も様々な思惑を持つ人々が内紛を起こしたりしましたが、結局は1909年にはスルタンのアブデュルハミト2世は退位させられることとなりました。新スルタンとして弟のメフメト5世が即位し、オスマン帝国は立憲君主国家として確立されることとなりました。

ここまでを見ると、青年トルコ革命は成功した、と言えるでしょう。ところが、時代は帝国主義真っただ中。オスマン帝国内の政争を、周辺諸国が放っておくはずがありませんでした。」
名もなきOL
「弱みを見せたら付け込まれる。この時代は、本当に弱肉強食の時代ですね。」

青年トルコ革命 革命後の苦難

big5
「青年トルコ革命はその目的を達成し、成功したかのように見えます。しかし、その一方でオスマン帝国の勢力圏は再び減少していきました。まず、青年トルコ革命が勃発した1908年のうちに、オーストリアがボスニアとヘルツェゴビナを併合してしまいました。オーストリアは、1878年のベルリン条約(しのぎを削る列強 ロシア アレクサンドル2世の農奴解放令と露土戦争 参照)で、この地方の行政権を獲得していたので、事実上オーストリアの支配下にあったわけです。青年トルコ革命の混乱を絶好の機会、ととらえて併合してしまったわけですね。
このあたりの地名は、日本人には馴染みが無いので、もう一度地図を見て確認してみましょう。「世界の歴史まっぷ」さん作成のこちらの地図がわかりやすいと思います。」



名もなきOL
「あれ?でも、このあたりってドイツ人が多い地域でしたっけ?」
big5
「いえ、決して多くありません。むしろ、ボスニアやヘルツェゴビナに多く住んでいるのはスラヴ系の民族であるセルビア人です。ドイツ人国家のオーストリアは外国人の国なんですね。オーストリアは領土が増えて喜んだのでしょうが、これは、間もなく第一次世界大戦の引き金になります
続いて、同じく1908年にオスマン帝国内の自治国であったブルガリアが王国として独立しました。ブルガリアは、露土戦争後にいろいろあった結果、ドイツのビスマルク主催のベルリン会議で、オスマン帝国を宗主国とする自治公国ということになっていたんですよね。それから約30年が経ち、青年トルコ革命を好機としてついに独立したわけですね。なお、この時に独立したブルガリア王国は、歴史上は「第三ブルガリア王国」と呼ばれます。ブルガリア王国の歴史では2度目の復活にあたるわけですね。」
名もなきOL
「ブルガリアも、外国支配が長かった国なんですね。1908年独立ということは、まだ独立して100年ちょっと、なんですね。」
big5
「さらにオスマン帝国に仕掛けたのはイタリアでした。イタリアはここぞとばかりに1911年9月にアフリカ北岸のキレナイカ・トリポリ方面の割譲を主張して宣戦布告(イタリア=トルコ戦争。「伊土戦争」とも)。オスマン帝国にこれを防ぐ力はなく、やむを得ずイタリアの要求を認めてキレナイカ・トリポリをイタリアに割譲しました。イタリアは、この方面を古代ローマ時代の名前であるリビアと呼び、植民地として支配しました。」
名もなきOL
「領土欲しさの侵略戦争ですね。私も、帝国主義時代の話を聞いているうちに、このような戦争が普通に感じてしまうようになってきました。。」
big5
「日清戦争と日露戦争を「悪い日本の始まり」と考える人がいますが、その理屈が通るなら欧米列強と日本はすべて「悪」ですね。平和主義という観点に立てばそのとおりなんですが、この時代に「平和主義」という考え方はまだまだ普及していません。「勝てば官軍、弱肉強食」です。

こうして、青年トルコ革命で立憲君主国となったオスマン帝国でしたが、混乱の最中に外国の襲撃と傘下の異民族国家が分離独立するという、痛みを伴うものとなりました。そして、それだけでは留まらなかったんです。独立したバルカン半島諸国の思惑に、列強の利害関係が絡んで情勢は複雑化。バルカン半島の紛争はすぐに2度にわたるバルカン戦争へと発展し、そして第一次世界大戦へと向かっていきます。
と、言ったところで今回はここまで。
ここまでご清聴ありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。」


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