small5
「今回は「広がる世界・変わる世界」の詳細篇ということで、スイスの宗教改革について詳しく見ていくぜ!」
big5
「詳細篇の聞き役はいつもどおり私・big5です。今日もよろしくお願いします。」
small5
「スイスの宗教改革、というと国ぐるみの活動のように聞こえるが、実態は最初にツヴィングリ、その後にカルヴァンという、2人のリーダーによって進められた変革だな。そして、特にカルヴァンの信仰は西ヨーロッパに大きな影響を与えたので、歴史的にもたいへん重要だ。
さて、まずはいつもどおり年表から見ていこうか。」
年月 | スイスのイベント | 世界のイベント |
1483年 | 11月10日 ドイツ中北部のアイスレーベンにてルター誕生 父・ハンス(農民出身の鉱山夫) | |
1484年 | ツヴィングリ誕生 | |
1492年 | コロンブスがサンサルバドル島に到達 | |
1509年 | 7月10日 カルヴァン誕生 | |
1517年 | 10月31日 ルターが95箇条の論題を掲示 | |
1518年 | ツヴィングリ、チューリヒの教会の司祭に就任 | |
1519年 | カール5世即位 | |
1521年 | ルターが破門される | |
1522年 | 帝国騎士の乱 始まる | |
1525年 | ドイツ農民戦争 終結 | |
1526年 | モハーチの戦い ムガル帝国成立 | |
1528年 | チューリヒ、バーゼルなど新教都市の同盟が組まれる | |
1529年 | 5月 第1次カッペルの戦いでカトリック軍を破る 10月 マールブルクでルターとツウィングリが会談し、新教徒らが妥協しながらも団結 |
第二回シュパイエル帝国議会でルター派が禁止される 第一次ウィーン包囲 |
1531年 | 10月11日 ツウィングリが第2次カッペルの戦いで戦死 | ルター派がシュマルカルデン同盟を結成 |
1533年 | ピサロがインカ帝国を征服 | |
1534年 | ヘンリ8世が首長法制定しイギリス国教会成立 | |
1541年 | カルヴァンがジュネーヴで宗教改革開始 | |
1544年 | イタリア戦争 終結 | |
1545年 | トリエント公会議 | |
1564年 | カルヴァン死去 | |
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「さて、まずはツヴィングリから見ていこうか。フルネームは「フルトライヒ・ツヴィングリ」(Huldrych Zwingli)。他の名として「ウルリヒ・ツヴィングリ」(Ulrich Zwingli)というのも記録されている。日本語訳は「ツウィングリ」とも表記するが、ここでは「ツウヴィングリ」と記載するぜ。」
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「ツヴィングリは1484年1月1日にスイス北東部の街・ウィルトハウスで生まれた。ルターよりも1年後だな。生涯のほとんどを故郷ウィッテンベルクで過ごしたルターとは異なり、学生時代はウェルフリン、ウィーン、バーゼルと渡り歩いて人文学、哲学、神学を学んでいたそうだ。1518年(34歳 1519年とする説も)、チューリヒ教会の司祭に就任した。この頃から、スイス傭兵問題(当時、スイスを支える主要産業の一つが傭兵派遣業だった。しかし、戦場から帰ってきた傭兵達が国内で問題を起こすことが多発し、スイスの重要な社会問題になっていた。)など、社会問題に積極的に参画するようになったそうだ。また、エラスムスをはじめとした人文主義者と盛んに交流するようになり、人文主義の影響を強く受けてきた。ツウィングリが宗教改革に乗り出すきっかけとなったのは、ペストに罹って死の淵をさまよった経験から来ている、と言われているな。」
big5
「ツヴィングリの改革は、ルターの改革よりももっと聖書に忠実で、政治にも踏み込んだものでした。中世以来の伝統的な教会の収入源となっていた十分の一税を廃止に追い込んだり、修道院を閉鎖させたりと、聖書に根拠がないものはどんどん排除していく、というものでした。ツヴィングリの改革には反対派も多かったのですが、賛成派は積極的に協力し、1528年には、チューリヒ、バーゼルなど新教を受け入れた都市で同盟を組み、カトリックを奉じる都市に対抗するようになりました。」
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「ツヴィングリの改革の詳細を見ていくうえで、重要になるのがツヴィングリの同志ともいえるエコランパディウス(Oecolampadius 1482~1531年 ドイツ名はHussenggen)だ。」
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「エコランパディウスは1482年にドイツのワインスベルクで生まれた。ルターよりも1年先だな。1506年(24歳)からプファルツ選帝侯の家庭教師を務め、1515年(33歳)にロッテルダムにいたエラスムスの同僚となり、人文主義に賛同して新約聖書ギリシア語原典出版に協力している。1518年(36歳)にはアウクスブルク大聖堂付きの説教司祭に就任した。これがきっかけとなり、エコランパディウスはルターの宗教改革に共鳴するようになる。一時は修道院に入ったこともあるが、修道院を脱走して宗教改革を指導し、1520年(38歳)にはスイス北部、フランス・ドイツの国境間近の都市バーゼルに活動拠点を移した。円満な人柄だったエコランパディウスはバーゼルの改革運動のリーダー格となり、バーゼル大学教授、聖マルチン教会の司祭を務めた。1522年(40歳)にバーゼルの教区司祭、説教師、牧師としてツウィングリの盟友となり、ツウィングリの支援活動をバーゼルで、さらにスイス中部の町ベルンでも展開し、1527年(45歳)にはバーゼル大聖堂付き牧師に就任した。エコランパディウスは数多くの神学論争で主要な役割を果たし、ツウィングリと並ぶ宗教改革の指導者だったわけだな。」
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「ツヴィングリとエコランパディウスによって宗教改革は進められたが、カトリックにとどまって彼らに対抗する都市も多かった。1529年5月、カトリック派の都市と新教派都市の軍がカッペルで激突した。第1次カッペルの戦い (Kappelerkriege;Kappel Wars))だ。」
big5
「第1次カッペルの戦いは新教派の優勢で終わり、信仰の自由を認める和議を結んで終結しました。
しかし、これで安心できる状況ではありませんでした。1529年は、第二回シュパイエル帝国議会でルター派が一転して禁止された年でもあります。カトリック側が勢いを盛り返し始めたわけですね。そこで、ツウィングリは同じ新教を奉じる者として、ドイツのルター派と連合する必要性を感じます。同年10月、ヘッセン伯フィリップから招かれたマールブルク会談は、ドイツのルター派と連合するいい機会でした。しかし、「ルター」のページでも説明したとおり、聖餐式に対する考え方の違いにより、完全に協調することには失敗。チューリヒは、カトリックと敵対するがルター派とも完全に協調できない、というやや孤立した状態に陥りました。」
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「それから2年弱が経った1531年10月、カトリック側が新教側の不意を突く形で第2次カッペルの戦いが始まった。不意を突かれた新教側は敗れ、ツウィングリは10月11日に戦死(享年47)。また、ツウィングリ戦死の報を受けたエコランパディウスの衝撃は計り知れないものだったようで、翌月11月23日にバーゼルにて死去した(享年49)。
ツウィングリ、エコランパディウスの死後も、新教政策は継続されたのだが、その勢いは大きくそがれてしまい、スイスにおける宗教改革は一時頓挫することになったわけだ。」
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「次にカルヴァン(1509~1564年)の宗教改革を見ていこう。カルヴァンとツヴィングリは直接の関係はないが、結果的にはカルヴァンがツヴィングリの後継者になった感があるな。
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「カルヴァンは1509年7月10日ピカルディのノアイヨンで生まれ、パリ、オルレアン、ブールジュの大学で神学、法律、人文学を学んで人文学者としての道を歩んできた。ルターやツヴィングリが宗教改革を始めると、カルヴァンもフランスで新教の説教を行ったりしたが、フランスでは目を付けられて迫害されるようになり、外国に出ることになった。」
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「カルヴァンが宗教改革に乗り出したのは、1532年頃だと考えられています。バーゼルで活動を始めたカルヴァンは1536年(27歳)に「キリスト教綱要」(ラテン語)の初版を出版し、ファレルの要請でジュネーブでの宗教改革に参加しました。しかし、カルヴァンの姿勢はあまりに厳格であったため、1538年には一時的に追放されてしまい、シュトラスブルクに移ります。この頃から、1539年にかけて「ローマ人への手紙」をはじめとした旧約聖書・新約聖書のほぼ全体の注解を行っています。1541年(32歳)に再びジュネーブに迎え入れられると、厳格な改革を断行し、神政政治(あるいは神権政治)と呼ばれるような厳格な政治を行いました。「厳格」というのは、処罰が過酷、という意味です。」
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「本編(カルヴァンの宗教改革)では
・教皇は素晴らしい人だ、と教皇をほめた人
・説教中に居眠りした人
・カルヴァンの思想に反対した人
・放浪の占い師に占ってもらった人
を紹介していたが、実際にはもっと多い。いくつか例を挙げると・・・
・不義密通については従来よりもはるかに厳しい死刑(男は斬首、女は水死)
・異端者は最も厳しい死刑である火刑
だな。」
big5
「けっこう狂信的な内容ですよね。例えば、セルベトゥスという医学者兼神学者がいました。彼は血液の肺循環を発見しており、医学発展の礎を築いた人物の一人です。神学者でありながら、医者でもあったセルべトゥスの思想は、カルヴァンのように神を絶対的な存在とはせず、極めて人間中心的な信仰を説いていました。この説は、カトリックからもプロテスタントからも「異端」と考えられ、さらにカルヴァンの目をつけられるところとなり、1553年、ジュネーブにて火刑に処されています(享年42歳)。」
カルヴァン派の広がり
「よく思うんだが、このような厳格な思想のカルヴァン派が、よくヨーロッパじゅうに広まったよな。この手の厳格な宗教は、一時的にもてはやされることはあっても、厳格さに多くの人がついていけず、やがて廃れていくことが多いと思うんだが、カルヴァン派はその後の歴史に影響を与えるほどにまで成長した。不思議に思うぜ。」
big5
「それはおそらく、カルヴァンの教義には、共和主義や人権思想などと結び付けられて話されることが多かったためでしょう。カルヴァンの考え方(カルビニズムという)は、かなりのスピードでヨーロッパ社会に広まっていきました。カルヴァン派は特に商人階級などに広く受け入れられて広まり、スイスのみならず、フランスやドイツにも広まっていきました。カルビニズムは、その後のオランダ独立戦争、ピューリタン革命、アメリカ独立宣言などの思想的基礎となった他、やがては資本主義成立の礎となった、という学説(M・ウェーバー)もあります。
そんなカルヴァンの最期は、1564年5月27日、ジュネーブにて生涯を閉じました(享年55歳)。」