1848年革命の始まり 両シチリア王国の暴動


1848年は、ヨーロッパ各地でウィーン体制に反対する勢力が暴動・蜂起などの武力衝突が発生しました。その口火を切ったのが、青年イタリアらが活動していたイタリアでした。1月、イタリア半島南部とシチリア島を領有していた両シチリア王国で暴動が発生。蜂起した民衆らは、国王フェルディナンド2世(38歳)に憲法を承認することを強制しました。この両シチリア王国とは、ウィーン体制のもとで1816年に成立した王国で、国王はフランス王家であるブルボン朝の血筋にあたります。ウィーン体制でフランス王に返り咲いたブルボン家のメンバーですので、当然ながら復古・保守・専制の立場です。自由主義などは、新興勢力を懐柔するための方便にすぎません。時の王であったフェルディナンド2世は、即位当初は自由主義的改革の傾向を見せていましたが、実際にはすぐに専制政治に移行しました。そんな鬱憤がたまりにたまったシチリア民衆は1月についに武力放棄に至り、ナポリでも自由主義派が運動を活性化させたため、これに抗しきれずに2月に憲法発布となりました。なお、フェルディナンド2世のあだ名は「砲撃王」です。彼はシチリアの暴徒鎮圧のために、自分の領地であるシチリアの街を砲撃したことがその原因です。彼の人となり(当時の王侯貴族らの価値観)が知れる1件ですね。

ミラノ反乱 第1次イタリア独立戦争 開戦


両シチリア王国で自由主義派の武力放棄、憲法発布の成功に刺激されたのか、3月にはイタリア北部の大都市ミラノで大規模な反乱が勃発しました。ミラノを支配していたオーストリアは、反乱鎮圧のために軍を送りますが、これに正面から対抗したのがサルジニア国王であるカルロ・アルベルト(50歳)でした。カルロ・アルベルトは、ナポレオン全盛期の頃にパリ、ジュネーブで教育を受けたためか、自由主義思想を持った人物であったそうです。実際の政治は、専制的なものから脱却できずにいたそうですが、1848年の革命の波に乗り、3月にはアルベルト憲法を発布し、議会制の導入に踏み切りました。そして、ミラノ反乱をきっかけに、オーストリアに対して宣戦布告。第一次イタリア独立戦争が始まりました。
民衆の力で憲法を発布させられた両シチリア王国も、ナポリの軍隊を派遣してサルジニア王国側で参戦。緒戦はサルジニア側が有利に戦いを進めました。しかし、5月に両シチリア王国のフェルディナンド2世は、自由主義派から主導権を奪還し、対オーストリア戦に参加していたナポリの軍隊を呼び戻してしまいました。そして、以前にも増して専制体制を強め、自由主義派の弾圧も強化しました。
さて、これに対してオーストリアは歴戦の名将・ラデツキー将軍(72歳)を起用します。この時、かなり高齢ではありましたが、ラデツキー将軍は、当時のヨーロッパで屈指の実力を誇る将軍で、作曲家のJ・ストラウスは彼を称える曲として「ラデツキー行進曲」を作曲しています。勢いに乗るサルジニア王国軍でしたが、さすがに相手が強すぎたのか、7月23〜25日にかけて北イタリアのベロナ近くで行われたクストーザの戦いで、オーストリア軍が完勝。戦争はしばらく休戦状態に入りました。

ローマ共和国の成立


1848年革命の嵐は、ローマ教皇領をも襲いました。時の教皇ピウス9世(56歳)は、二院制の議会を定める旨の憲法を制定するなどし、自由主義派を懐柔する政策をとっていますが、それだけでは抗しきれず、1848年11月、ローマで発生した暴動を機に、ピウス9世はナポリ王国に亡命します。政治的空白地帯となったローマに、新たに樹立されたのが青年イタリアを率いるマッツィーニ(44歳)らでした。マッツィーニの他に、アルメッリーニ、サッフィの2人が加わって三頭政治体制を取った新国家は、1849年2月9日に、教皇俗権の廃止とローマ共和国の樹立を宣言します。また、中南米に亡命していたガリバルディ(41歳)もローマ共和国に参加し、彼らの積年の夢であった共和制国家はついに誕生したわけです。

第1次イタリア独立戦争の終結


1848年は、自由主義者らにとっては、世の中を変革させる端緒を掴んだように思えた年でしたが、この流れは翌1849年には終息してしまいました。まずサルジニア vs オーストリアの戦い。1849年3月11日、カルロ・アルベルトは10万の軍を率いて出陣。ミラノ西方45kmのノバラの地でラデツキー将軍率いる7万のオーストリア軍と交戦、完敗します。カルロ・アルベルトは敗戦の責任を取り、戦陣にて退位を表明し、息子のビットリオ・エマヌエレ2世が後継者としてサルジニア国王に即位しました。カルロ・アルベルトはそれから間もない1849年7月28日、亡命先のポルトガルのオポルトで失意のうちに死去。享年 歳。さて、新サルジニア国王となった、ビットリオ・エマヌエレ2世は、国王最初の仕事として、ミラノにてラデツキー将軍と休戦協定を締結し、第1次イタリア独立戦争は終結しました。ちなみに、サルジニア王国議会は、この休戦協定批准を拒否したため、ビットリオ・エマヌエレ2世は11月に議会をいったん解散。同時にモンカリエーリ宣言を出し、立憲議会制を維持するためには穏健派が議会で多数となることが必要だ、と訴えました。議員らの一時的で過激な気分や感情で国策が決められるのは危険だ、というメッセージなのでしょうかね。
一方、マッツィーニらのローマ共和国も外国勢力の脅威にさらされていました。1849年7月、フランスの大統領に就任していたルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世:41歳)は教皇の復権を口実として、ローマ共和国にフランス軍を派遣しました。これに対し、ローマ共和国は中南米で腕を磨いたガリバルディが指揮を執り、数も質も不足しているローマ共和国軍を率いて、強大なフランス軍相手に奮戦しますが、力及ばず敗北。マッツィーニは再びロンドンに亡命。ガリバルディは各地を転戦した後、アメリカに亡命しました。ちなみに、ガリバルディは1854年に帰国を許されています。

こうして、1848年革命でイタリアに起こった自由主義への革命はすべて失敗に終わりました。この後、イタリア諸王国は旧体制が復活しましたが、一つだけ自由主義者らが期待を寄せる国がありました。サルジニア王国です。サルジニア王国は、カルロ・アルベルト憲章を維持し、開設された議会も存続させていたため、各地のイタリア愛国者らは、サルジニア王国が次世代のイタリアを担うのではないか、と期待していたのです。

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