カルボナリ結成


カルボナリとは、イタリア語でCarbonariで、日本語では「カルボナリ」とカタカナ表記したり、Carbnonariの意味「炭焼き」から「炭焼党」と呼ぶこともあります。このサイトでは、「カルボナリ」と表記することにします。
1806年頃、南イタリアで結成されたカルボナリは、分裂状態にあったイタリアを統一させよう!というイタリア統一運動の原点ともいえる組織でした。ただ、残念ながらこのサイトでの扱いは「前座」的なものなので、カルボナリ自体はそれほど詳しくは扱いません。概要としては、決して表立った活動を主体としたものではなく、同じ志を持った人々が秘密裏に集まって、イタリアの将来について話し合うという形だったそうです。組織の特徴としては、フリーメーソンの組織形態を受け継いで、位階制の構造を持っていました。通常は徒弟、親方、大親方の3位階に分かれており、位階ごとに異なる教義問答書というものがありました。その内容は、専制への批判と社会正義の要求でした。入社式や下級位階から上級位階へ移る際は、複雑な儀式が営まれ、結社員の間で秘密の維持が求められました。

ウィーン体制下のイタリア


1815年、ナポレオンが敗北した後のヨーロッパ世界の再編成(ウィーン体制)で、イタリアはナポレオン体制以前の姿にほぼ戻りました。すなわち、ナポリ王国とシチリア王国は再統一されて両シチリア王国となり、サルデーニャ王国はピエモンテとサヴォワの旧領を取り戻し、ロンバルディアとヴェネトの両地域はオーストリア帝国が支配するロンバルド・ベネト王国となり、中部イタリアにはトスカナ大公国、ローマを中心とする教皇領などが主だった国家として再編成されました。ナポレオン支配時代は、ナポレオン法典に基づいて自由主義的な思想が普及しましたが、復活したこれらのイタリア諸王国は、ウィーン体制に特徴的な「復古・保守・絶対王政」的な政策に回帰しました。言うなれば、フランス革命以前の「王室・政府による王室・政府のための政治」に戻った、といったところでしょうか。これに対して激しく反発したのは、主に中産階級に属する人々でした。彼らは、フランス革命とナポレオン法典によって一時的ではあっても具現化された自由主義的な政策、さらには参政権を要求するようになっていました。カルボナリは、そのような国を求める自由主義的なブルジョワジー、軍人、官吏が結集するようになり、カルボナリはその受け皿として、専制政府に反対する立憲自由主義運動としての性格を持つ組織へと変貌していきました。
カルボナリは、やがて「革命」という形で、言い換えれば武力でイタリア統一国家を作り上げようとしましたが、その一方で穏健派の人々は教皇を首長とし、イタリア各国が参加する「イタリア連邦」を理想として掲げていました。

カルボナリの革命


1820年、カルボナリによる革命がナポリで成功し、革命政権を樹立させることに成功しました。しかしその後、制定すべき憲法の内容をめぐって急進派と穏健派が対立してしまいます。この間にオーストリア軍が介入したため、1821年に革命政権は崩壊。カルボナリによる政権は一時的なもので幕を閉じました。
しかし、カルボナリの活動はこれで終わにはなりません。これで終わってしまったら、このサイトで独立したページは作られません。1821年は、ナポリ革命が失敗に帰した年でしたが、その一方でカルボナリの活動がイタリア国内に終始せず、国際的な広がりを持ち始めた年でもありました。この年、フランスでカルボナリのフランスにおける組織、その名も「シャルボンヌリ(フランス語では"Charbonnerie")」が結成されました。シャルボンヌリの結成は、カルボナリが目指していた「自由・独立」の組織活動が、イタリア半島だけに留まらず、ヨーロッパ世界全域において、ウィーン体制に反対する自由主義運動の中心組織へと発展するきっかけとなりました。

カルボナリから青年イタリアへ マッツィーニの台頭


1827年、後にイタリア統一運動の中心人物の1人となるジュゼッペ・マッツィーニ(以下、マッツィーニ)が大志を抱いてカルボナリに参加しました。当時、22歳。彼はその一生をイタリア統一運動に捧げることになります。それは、苦難の連続ともいえる道のりでした。まず、カルボナリ参加から3年後の1830年、マッツィーニは逮捕され投獄されてしまいました。翌1831年には釈放されますが、この年、中部イタリアでカルボナリが再び革命政権を樹立させますが、前回と同様に外国勢力であるオーストリアが軍隊を派遣して鎮圧にあたり、革命政権は再び崩壊してしまいました。2度目の失敗に、さすがのカルボナリも、士気喪失が激しかったのか、以降その活動はどんどん終息に向かって行きました。
そんな中、イタリア統一国家を夢見るマッツィーニは、1831年秋、亡命先のマルセイユで新たな組織「青年イタリア」を結成しました。この時、マッツィーニ26歳。若きリーダーです。この青年イタリアが、カルボナリの後継組織となり、イタリア統一運動において重要な役割を果たしたため、高校世界史でも太字で名前が表記されたりします。まず、その組織形態は前身であるカルボナリのような位階制は廃止され、一つの行動団体的な形態をとりました。活動内容は、小部隊による反乱方式、つまりゲリラ戦を中心としました。マッツィーニの思想・行動が「過激」と表現されるのは、この辺りに理由があると思われます。マッツィーニが目指すイタリア統一国家とは

1.共和制であること
2.小部隊が武力蜂起して建国されること

をたいへん重要視していました。言ってみれば、マッツィーニはイタリア統一国家を「革命」によって作ろうとした、と言えるでしょう。
青年イタリアを率いるマッツィーニは、早速行動を起こします。1833年には北イタリアで何度か蜂起を試み(ただし、すべて失敗)、1834年には青年イタリアの国際組織である「青年ヨーロッパ党」を結成し、ナショナリズムの理論を練り上げたりしました(ただし、これは数年後には解体)。ここでいったん、マッツィーニはロンドンに移ります。そしてそこでチャーティスト運動を目の当たりにしました。チャーティスト運動とは、簡単に言うと労働者による労働運動です。これを見たマッツィーニは、権利を求めて闘う労働者階級らのエネルギーに驚き、これに可能性を感じ、1841年に青年イタリアの一部門として「イタリア労働者連合」を設立しました。労働者の力が、自分が目指す共和制国家イタリアの建国にたいへん重要である、と認識したのです。なお、この組織は、1848年になって別個の組織へと再編成されます。
そしてもう一人の重要人物がいます。ジュゼッペ・ガリバルディです。マッツィーニに並んで、ガリバルディもイタリア独立運動における重要人物です。特に、彼は軍事的才能に優れていたため、思想家・行動家であるマッツィーニよりも一般庶民からは英雄として受け入れられているようです。1834年、当時27歳であったガリバルディは、青年イタリアに所属してジェノバ港で蜂起を試みましたが、事前に露見。ガリバルディは欠席裁判で死刑を宣告されていますが、当の本人はフランスを経由して南米に亡命して、しばらく潜伏しておりました。それも、ただほとぼりが冷めるのを待つのではなく、次の成功のためにブラジル、ウルグアイの独立運動に参加。ゲリラ戦のノウハウを身につけました。

こうして、イタリア統一運動は失敗を重ねながらも、着実にその空気は醸成されていきました。

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