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キューバ革命 (後篇)

ゲリラ戦のはじまり
big5
「カストロ率いる革命軍の戦闘方法は、マエストラ山脈の築いたアジトを拠点としたゲリラ戦と呼ばれるものでした。」
名もなきOL
「すみません、「ゲリラ戦」ってどんな戦い方なんですか?名前は知ってるんですけど、なんとなくしかイメージがわかなくて・・。」
big5
「ゲリラ戦とは、戦力的に劣る軍隊が、相手と正面切ってぶつかることを避けて、小規模な軍事行動で相手をじわりじわりと攻撃する戦法です。歴史にはよく「○○の戦い」と名前が付いている戦いがたくさんあります。これらの有名な戦いは、基本的に軍隊と軍隊が衝突して勝敗がついたり(引き分けになったり)して、その後の歴史の流れに大きく影響しています。ゲリラ戦は、このような「○○の戦い」と呼ばれるような大きな戦は避けて、もっと小規模な戦いをあちこちで行うイメージです。
例えば、敵に姿を見せない神出鬼没の行動で武器・食糧の貯蔵庫を襲撃したり、自分たちよりも弱そうな小部隊の敵だけを攻撃します。自分たちよりも強い敵の本隊がやって来た時は、戦わずに逃走して姿をくらませる、という戦いを繰り返すことが特徴ですね。ゲリラ戦を長期間にわたって繰り返していくと、相手は徐々に物資的にも精神的にも(これが一番効果があるかもしれません)疲弊していきます。」
名もなきOL
「逃げ回りながら、相手の弱いとこだけ攻撃する、っていうかんじなんですね。ちょっとせこいやり方かも。」
big5
「せこい方法かもしれませんが、賢い方法でもあります。ただ、ゲリラ戦は成功率が低い戦法、とも言われています。相手よりも戦力が劣るので、逃げ切ることができればいいのですが、逃げ切れないと敵に捕えられたり、全滅してしまうこともありえるからです。
さて、革命軍による最初の襲撃は、1957年1月17日深夜、マエストラ山脈にそびえるキューバ島最高峰のトゥルキノ山(標高約2000m)の麓にあるラプラタ兵営襲撃でした。この襲撃に対し、政府公認新聞はあくまで一過性の戦闘、としか報道しませんでした。完全に本来の状況を見誤っていた、と言えるでしょう。この時既に、カストロら革命軍は周辺農民の支持を得て、確固としたアジトを築いており、ゲリラ戦はこれから本格的に始まろうとしていました。一過性のものではまったくありませんでした。」
日本史好きおじさん
「政府側は、カストロが本当は生きていることを知っていて、ワザと隠したんでしょうか?それとも、本当に誤認していたんでしょうか?いずれにしても、初期対応が完全に間違ってしまったんですね。」
名もなきOL
「ゲバラも襲撃に参加したんですか?」
big5
「参加していて、さらに活躍もしたそうですよ。最初のラプラタ兵営襲撃では、ゲバラは援護無しの単独行動で駆け回り、倉庫に火を放って敵陣をパニックに陥れています。この時の軍功が周囲に認められ、ゲバラは革命軍の中での信頼を得ていきました。
革命軍は二度目の襲撃としてアロヨ・デル・インフェルノを襲撃しました。この時、ゲバラは初めて敵兵を殺害した、と日記に記しています。これ以降、カストロら首脳部の作戦会議に、ゲバラも参加するようになりました。」
日本史好きおじさん
「ゲバラは兵士としても有能な人だったんですね。」
big5
「万能型の天才だったのかもしれません。また、ゲバラは新入りの入隊希望者の教育も担当するようになりました。日記によると、1957年3月、58名のパルチザンが7月26日運動に加入しましたが、彼らは27丁の銃しか持っていませんでした。4月からの3か月間、ゲバラは彼らの訓練を担当しています。こうして、マエストラ山脈に築かれた革命軍のアジトはますます充実し、単なる革命軍アジトではなく小さな「解放共和国」の様相を呈するようになりました。解放共和国では規律が重んじられ、裏切り行為を咎められた農民3名が「人民裁判」で裁かれるなど、司法も行われるようになっています。
これらのゲバラの活躍が認められ、7月21日にカストロはゲバラを司令官に任命しました。7月26日運動の有望なリーダーの一人、フランク・パイース(都市に留まり、ストライキや破壊活動を担当)と連帯の署名をする時、ゲバラが署名をしようとしたらカストロが「司令官と書けよ!」と何気なく言ったことが、事実上の任命式となりました。ゲバラは新部隊の司令官となり、トゥルキノ山の東側をカストロ、西側をゲバラが担当しました。カストロとゲバラは時々合流して今後の作戦について話し合いました。8月29日、二人はピノ・デル・アグアの攻撃を決定し、9月17日に革命軍は町を攻略。この戦いでバティスタ政府軍の兵士37名が戦死しています。」

ゲバラ司令官の革命軍養成学校
big5
「革命軍の勢力拡大に一役買ったのが、ゲバラがエル・オンブリートに設立した革命軍兵士の養成学校です。『ゲリラとは圧政者に対するすべての人民による戦争である。』というゲバラの信念のもと、社会的階層の区別なく希望者を受け入れた他、女性も登用しています。ゲバラは日記や著書『ゲリラ戦争』の中で、ゲリラ部隊における女性の重要性について述べています。例えば、戦闘部隊間の連絡役や、ゲリラの日常活動とも言える移動と荷物運びに関しても、女性が非常に重要な役割を果たした、と、記しています。ゲリラ戦というと、神出鬼没の攻撃と退却を繰り返すスピード重視の戦いが連想されます。しかし、それはゲリラ戦士の活動全体から見れば、一部にすぎません。むしろ、戦闘以外の行動(移動や物資の運搬など)が時間の大半を占めています。自然の脅威や敵部隊の監視や追跡から逃れながら、いかにしてゲリラ生活をいかに乗り切るかが重要である、とゲバラは説明しています。」
日本史好きおじさん
「意外と地味な活動が多いんですね。そして、ゲリラ戦の実践的な部分まで説明しているんですね。」
big5
「そのあたりの観察力は「医師」という職業から来てるんだと思います。もしゲバラが純粋な革命家だったら、そういう地味な部分は、あまり語らなかったかもしれません。
ちなみに、ゲバラは戦闘以外のゲリラ活動で女性を活用し、戦闘に女性を参加させることは好まなかったようですが、カストロは後に女性のみで構成された中隊を編成し、前線での戦闘活動に従事させたそうです。なお、ほぼ男性で構成されるゲリラ部隊に女性隊員が加わると、風紀の乱れなどが懸念されます。ゲバラは、ゲリラ部隊内での恋愛や結婚は認めていましたが、放埓な関係は厳しく取り締まり、一部の男女の関係が部隊全体に悪影響を及ぼすことがないよう、規律を厳しくすることで対処しました。」
名もなきOL
「ゲリラ部隊内恋愛って・・・そんな状況で恋愛する余裕なんてないと思います。」
big5
「もう一つ、ゲバラの活動として特徴的だったのは、広報活動です。ゲバラは革命運動をさらに拡大させるために、機関紙「自由キューバ人」を刊行した他、無線による「ラジオ・レベルデ」の放送を開始しました。こうした広報活動は、革命軍の勢力拡大に一役買ったのみならず、他の反バティスタ組織が「7月26日運動」の成果を横取りするような事態を防ぎました。実際、カストロらの活動が軌道に乗り始めた時、アメリカのフロリダ州マイアミにて、キューバで起きている反政府闘争の全てを統括する(と自称している)亡命政府が立ちあげられたことがありましたが、彼らが「7月26日運動」の成果を横取りすることはできませんでした。」

マエストラ山脈の戦い

big5
「革命軍がキューバに上陸してからおよそ1年半が経過した1958年5月初め。活動を活発化させる革命軍に対し、バティスタはようやく重い腰を上げました。マエストラ山脈に巣食う革命軍を一掃すべく、数万人の兵士と戦車、迫撃砲などの大型火器を装備した14の大隊と7の中隊を動員し、さらにこれを海軍と空軍が支援するという、軍を挙げての大規模な作戦になりました。」
日本史好きおじさん
「1年半も放置するとは、ずいぶん余裕たっぷりだったんですね。まぁ、カストロが死んだという誤報を信じていたからなんでしょうけど。」
big5
「そうですね。上陸間もない頃の革命軍だったら、ひとたまりもなかったことでしょう。しかし、革命軍はこの1年半で上陸当初とは見違えるほどの組織に成長していました。既に、マエストラ山脈一帯は周辺住民の支持を得て、革命軍の根拠地として成立していました。また、革命軍兵士らにとって険しい山地帯は自分たちの庭のようなものであり、戦術上の重要地点、自分たちに有利に進められる戦闘候補地点などは、暗記しているほどだったそうです。
5月24日、カストロは各隊長を集めて、それぞれの持ち場を指示しました。ゲバラは隊長の一人として、ヒバコア川流域を担当しています。政府軍の兵数は革命軍の10倍以上であり、戦車や迫撃砲といった現代兵器に至ってはほとんど所持していませんでした。しかし、緒戦で革命軍は政府軍の無線送信施設を数か所奪い取り、「自分たちの居場所に正確に爆撃をしてみろ」と、政府軍を挑発。」
高校生A
「そんな煽って大丈夫だったんですか?」
big5
「大丈夫だったんです。怒った政府軍は爆撃をするのですが、山地帯のゲリラ部隊を発見してそこに爆撃を加える能力はなく、無駄に弾薬を消費するばかりでほとんど戦果をあげることはできませんでした。

マエストラ山脈周辺拡大図。 マエストラ山脈は東西におおよそ200kmにわたって延びており、深いところでは南北におよそ50kmほどもあった。この中から、カストロら革命軍の拠点を探して空爆を行う技術は、当時のキューバ政府軍にはなかった。

big5
「それどころか、地上戦では地の利を心得ている革命軍が政府軍を圧倒しました。政府軍の戦車も迫撃砲も、山間部ではほとんど活躍する機会を得られずに撤退を余儀なくされ、一部は革命軍に奪われる有り様。5月25日から8月末までの戦闘で、政府軍の敗北は確定していました。革命軍が奪った戦車や迫撃砲などの武器は500を超え、革命軍の勢力圏内に数千人の政府軍兵士が取り残されてあげくに捕虜となるなど、マエストラ山脈の戦いはまさに革命軍の大勝利でした。」

サンタ・クララの戦い
big5
「マエストラ山脈の戦いで勝利した革命軍は、8月22日、その機を逃さんとばかりに進撃作戦を開始しました。カストロは、カミロ・シエンフゴス率いる第2部隊(部隊名「アントニオ・マセオ」 部隊名は、戦死した革命軍メンバーの名前)エル・サルトから進発させ、キューバ島の北岸経由で首都・ハバナに向かわせました。カミロは、カストロやゲバラに比べると国際的な知名度はありませんが、キューバではゲバラと並び立つ革命の英雄です。実際、ゲリラ戦の指揮能力に優れており、カストロが信頼する優秀な隊長の筆頭だったそうです。
8月31日にはゲバラ率いる第8部隊(部隊名「シロ・レドンド」)をラス・メルセデスから進発させ、キューバ島の南岸を経由する進路で同じくハバナに向かわせました。この時、第8部隊は副隊長のラミロ・バルデスと、139名の兵士で構成されています。そして、カストロ自身と弟のラウルは、自分たちの出身地でもあるマエストラ山脈東部のオリエンテ地方の解放に向かい、オリエンテ地方の中心地であるサンティアゴ・デ・クーバを目指しました。ついに、革命軍は根拠地であるマエストラ山脈から、キューバ島の各方面へ展開していったのです。」

キューバ島南東部の拡大図。マエストラ山脈の東側に、サンティアゴ・デ・キューバがある。ゲバラが向かったサンタ・クララは、地図の左上のあたり。キューバ島のほぼ中央に位置している。

big5
「ゲバラが率いた第8部隊は、密林地帯や沼地を踏破し、時折やってくる政府軍空軍の爆撃から身を隠しながら、少しずつ少しずつハバナに向かって行きました。その行軍は決して楽なものではありませんでしたが、進むにつれて革命軍に加わる有志や、降伏した政府軍兵士らが合流し、形勢は完全に革命軍に傾いていました。ゲバラは、単にハバナに向けて進軍していたわけではなく、行く先々で革命軍の目標である「農地改革」を実行することを説明し、約束していきました。」
名もなきOL
「農地改革、ってどんな改革をすると言っていたんですか?」
big5
「簡単に言うと、一部の大地主が独占している土地を没収して、小作人達に配分する、ということです。大地主にとってみれば迷惑な話ですが、小作人にとっては自分たちの困窮生活を変えることができる、重大な社会改革でした。カストロは、マルティの思想を色濃く受け継いでいましたので、一部の者だけが富を独占する、というキューバの現状を変えたかったんですね。同じ思いのゲバラは、この思想をキューバ民衆に伝えることを徹底していました。それこそが、彼らの革命の目的だったんです。
また、「7月26日運動」以外の反バティスタ組織の指導者らには、「7月26日運動」に協力し、その指示のもとで作戦を遂行するよう説得して回りました。ゲバラのカリスマ性はこの時にもいかんなく発揮され、11月末には、反政府グループの一つである革命幹部団と協定を結んでいます。
12月28日、ゲバラ率いる第8部隊(この時、兵力は400名ほどに増加していた)は、キューバ島中部の中心都市であるサンタ・クララへの攻撃を始めました。サンタ・クララには、約3000名の政府軍兵士が防衛にあたった他、秘密兵器として19両編成の装甲列車「トレン・ブリンダード」が配備されていました。トレン・ブリンダードに窓は無く、代わりに多くの銃眼が用意されており、この銃眼からマシンガンや大砲、ロケット砲などを発射できるという、強固な防御力を誇る要塞のようなものです。」
日本史好きおじさん
「たった400人で、3,000人と装甲列車が守る都市を攻撃したんですか?攻守逆転しているような気が・・・。」
big5
「私も、政府軍が3,000の兵士で守っていた、というのは誇張が入っているのではないかと思います。実際には、もうちょっと少なかったかもしれません。ただ、戦いの流れは完全に革命軍にありました。サンタ・クララを守る政府軍は、ゲバラ率いる革命軍だけではなく、政府に反旗を翻す民衆の動きも警戒しなければならなかったようです。
実際に、鉄壁の防衛体制のように見えましたが、この戦いは正味4日間で決着しました。革命軍に協力する市民らが、あちこちにバリケードを築いて政府軍の行動を妨害し、さらに革命軍と共に政府軍と戦う市民らも現れました。」
日本史好きおじさん
「政府軍は内にも外にも敵を抱えていたんですね。それなら納得できます。」
高校生A
「でも、まだ政府軍には装甲列車があったんですよね?」
big5
「はい、そうです。しかし、装甲列車も前評判ほどの力を発揮することなく、敗れてしまいました。
29日、装甲列車「トレン・ブリンダード」は、サンタ・クララ防衛司令部との連絡が完全に遮断されたために、退却しようとしたところ、革命軍が爆破していた線路のところで前方の車両が脱線、横転し身動きが取れなくなってしまいました。そこに、革命軍が火炎瓶を投げ込みます。鉄で覆われた列車に火炎瓶をぶつけても、中にいる兵にダメージを与えることはできません。装甲列車の兵士は、使用可能な銃眼から射撃で応戦しました。しかし、次から次へと火炎瓶が投げ込まれると、動けなくなった装甲列車の中はどんどんと熱され、やがてかまどのような状態になります。耐えきれなくなって車外の飛び出した兵士らは、革命軍の射撃によって撃ち倒されるか、降伏するしかありませんでした。数時間の攻防戦の結果、装甲列車の兵士らは降伏し、革命軍は装甲列車に積まれていた対空兵器や膨大な量の弾薬を獲得し、大きな戦果を挙げました。」
日本史好きおじさん
「敵に武器をあげたのと同じになったんですね。」
big5
「そして、12月31日にサンタ・クララは革命軍の手に落ちました。(ちなみに、この時の装甲列車は、現在もサンタ・クララの町の聖堂の近くに展示してあるそうです。)そして、サンタ・クララの戦いが、事実上キューバ革命の最終決戦となりました。
年を越して1959年1月1日、カストロと弟のラウル率いる部隊は、サンティアゴ・デ・クーバの街を占領。1月2日には、キューバ島北岸を進軍していたカミロ率いる第2部隊が抵抗らしい抵抗も受けずに首都・ハバナに到着しています。」
名もなきOL
「バティスタはどうなったんですか?」
big5
「バティスタは既にハバナを捨ててドミニカ共和国に逃亡していました。ハバナに残っていた政府軍は、既に指揮官であるバティスタに置き去りにされていたんですね。そのため、カミロは何の抵抗も受けずにハバナに無血入城しています。そして、コロンビア兵営とマグナア兵営に集まっていた数千人の政府軍兵士を翌日支配下に入れました。3日、ゲバラとカミロはハバナにて再会し、お互いを抱きしめあいました。こうしてキューバ革命は成功したのです。

キューバ人が求めた真の独立は、こうして達成されました。カストロは、サンティアゴ・デ・クーバを占領した際の演説で

「キューバにとって喜ばしいことに、革命がまさしく成功したのだ。米国人が我々の国を支配した1898年のようにはならないだろう。
と言っています。1898年のこととは、米西戦争を指しています。2.米西戦争とアメリカ従属で記載されているように、米西戦争の最初のきっかけは、キューバ人による独立運動でした。それが、アメリカが米国が介入することで、キューバを舞台にした「アメリカ vs スペイン」の戦争に変わりました。この戦いに敗れたスペインはキューバを去りましたが、代わりに米国がキューバを事実上支配するようになりました。米西戦争はあくまで「アメリカ vs スペイン」という植民地争奪戦であり、キューバ人の戦いではなかったのです。

キューバ革命 略年表              
1957年
1月17日革命軍がトゥルキノ山麓のラプラタ兵営を襲撃
7月21日ゲバラが司令官に任命される
9月21日革命軍がピノ・デル・アグアの街を攻撃・占領
1958年
5月〜8月政府軍が革命軍鎮圧のために大軍を送り込むが大敗
12月31日ゲバラがサンタ・クララを攻略。
1959年
1月1日カストロがサンティアゴ・デ・クーバを制圧
1月2日カミロ率いる第2部隊がハバナに無血入城
1月3日ゲバラとカミロがハバナで再会


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