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キューバ革命(前篇)

カストロの最初の蜂起

big5
「さて、キューバの事実上の独裁者となったバティスタさんでしたが、形式上はキューバも選挙で政権担当者を選ぶことになっていました。事件が起きたのは、1952年のことです。バティスタ(この時51歳)は、選挙で自分が勝てそうにないことがわかると、2回目となるクーデタを起こし、力づくでキューバのトップに返り咲く、という荒業を見せました。そして、選挙は無期限延期となってしまいました。
気に入らなければ、力づくで大統領の座を手に入れる
という、典型的な独裁者ぶりを露呈する事件だったといえるでしょう。」
名もなきOL
「本当にやりたい放題なんですね。ウチの会社の○○専務みたい。。」
日本史好きおじさん
「まぁ、現代でも民主主義を装う独裁国家はありますからね。どことは言いませんが。」
big5
「そうですね。こんなかんじで、この頃のキューバは独裁者の思うがままの国だったんですね。そんなキューバの現状を変えようと考えた男がいました。フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)です。
カストロは、1926年8月13日、ビラン近郊で富裕なサトウキビ農園主の私生児として生まれました。兄弟は男3人、女4人の7人で、カストロは次男にあたります。父はスペインからやってきた移民で、苦労の末に800ヘクタールの土地を手に入れたそうです。少年時代から成績優秀だったカストロは1945年にハバナ大学法学部に入学してから、反政府的な学生運動である「キューバ人民党(オルトドクソ:ホセ・マルティの思想を正統に受け継ぐ者)」の指導者となりました。1947年には、ドミニカ共和国の独裁打倒を目指す運動に参加しています。また、1948年にはコロンビアを訪問しましたが、ここでカストロが会おうとしていた社会改革派の指導者が暗殺される、という事件に遭遇しました。この時、カストロは社会変革のためには、目的が明確でしっかりした組織が必要だ、と考えたそうです。1950年にハバナ大学を卒業して弁護士となると、1952年(この時26歳)にキューバ人民党から国会議員に立候補しました。しかし、バティスタが起こしたクーデタのために、選挙は無期限延期という結果。カストロはバティスタを力で倒さない限り、バティスタ独裁政権は打倒できないと考え、革命の道を歩むことになりました。」
日本史好きおじさん
「カストロが革命を起こしたのには、そんな背景があったんですね。」
big5
「そうですね。キューバ革命のそもそもの原因は、独裁政権の打倒にあったことは、あまり知られていません。さて、話を進めます。
1953年7月26日。カストロが実弟のラウル・カストロ(Raul Castro:22歳)と共に革命軍(このグループは後に最初の蜂起の日にちから「7月26日運動」と名乗ります。)を率いて、キューバ島南東部の都市・サンチアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営を襲撃する、という事件が起りました。しかしこの襲撃は失敗。カストロと弟のラウルは捕えられ裁判にかけられますが、この時の裁判でいくつか有名なエピソードが残っています。
まず、裁判官から「反乱の首謀者は誰か?」と尋ねられた時に「ホセ・マルティである」と答えたそうです。これが真実なのであれば、マルティの思想がカストロに大きな影響を与えていることを物語っています。」
日本史好きおじさん
「マルティは、思想的な支柱だったんですね。幕末の吉田松陰に似ている面がありますな。」
big5
「また、弁護士であるカストロは被告席から弁護人席に移り「歴史は私を無罪だと証明するだろう」という名言を残しています。こちらの方が有名かもしれません。裁判の結果、カストロらはキューバ島西側の南にあるピノス島の監獄に入れられましたが、1955年に特赦が出ために釈放され、メキシコに亡命していきました。しかし、これで諦めるカストロではありません。カストロはメキシコで革命軍組織を作るのに奔走します。そして、この時にもう一人のキューバ革命の英雄チェ・ゲバラ(Ernesto "Che" Guevara de la Serna)と出会うことになります。」

フベントゥ島と記載されているのがピノス島。フベントゥというのは「青年」という意味。現在は留学生の教育機関があるため、この名がついたのだ、とか。


チェ・ゲバラとの出会い

big5
「まず最初に重要なことは、キューバ革命の英雄・ゲバラはキューバ人ではなく、アルゼンチン人だった、ということです。ゲバラは、キューバ人から見れば外国人なんですね。ゲバラは1928年6月14日、アルゼンチンのロサリオで裕福な建築技師の家の子として生まれました。たいへんスポーツが好きだったゲバラ少年でしたが、この頃から喘息を患っており、生涯の持病として抱えることになります。ゲバラというと、葉巻を加えた写真を連想する人が多いと思いますが、あれはキューバの特産品の一つである葉巻の輸出量を増やすために、パフォーマンスとしてくわえていたのかもしれません。
ゲバラは1953年に医科大学を卒業した後、南米大陸を友人と旅しています。この時、南米各地に根強く残っている人種差別と、白人優位が当然とされている格差社会を目の当たりにしました。ゲバラは、なぜこれほどまでに貧しく、希望の光が見えない生活を余儀なくされている人々が大勢いるのか、彼の思想に大きな影響を受けたそうです。ゲバラは医師としての道ではなく、政治を志すようになり、革命政権下のボリビアとグアテマラを旅行しました。さらにメキシコまで足をのばし、1955年の夏、カストロと出会っています。カストロと意気投合したゲバラは、このままキューバ革命軍に加わることを決意しました。」
名もなきOL
「ゲバラはキューバ語も話せたんですか?それとも、カストロがアルゼンチン語を話せたとか?」
big5
「そこは気になりますよね。答えは、二人ともスペイン語が母国語なので、会話にはあまり困らなかったようです。キューバもアルゼンチンもスペイン植民地支配の時代が長かったため、公用語としてスペイン語が使われました。なので、カストロとゲバラは外国人同志なのですが、日本人が考える「外国人」とはやや違い、言葉は(方言の差はあったとしても)ほぼ通じていました。」

革命軍のキューバ上陸
big5
「1956年11月25日午前1時30分頃、、カストロ率いる「7月26日運動」のメンバー82人は、霧にまぎれて「グランマ号(Grammma おばあちゃん、の意)」と名付けた老朽船に乗り込んで密かに出航しました。グランマ号は全長13.25m、幅4.79m、定員25名の木造ヨットでした。グランマ号はアメリカ人ロバート・B・エリクソンからカストロが購入したもので、できるだけ多くの人が乗れるように、メンバーのチュチュ・レイエス(彼は船のエンジンに精通していたそうです)に改造を任せたそうです。いくら改造したとはいえ、25名の定員を3倍以上オーバーしているうえに、上陸後の戦闘に備えて武器弾薬や食糧などを積み込まなければならなかったため、船はぎゅうぎゅう状態だったようです。」
名もなきOL
「25名定員の船に82人+荷物って、かなりぎゅうぎゅうだったんでしょうね。ゲバラや弟のラウルさんもこの中にいたんですか?」
big5
「はい、もちろんです。この時点でゲバラの階級は中尉で、外国人医師として参加していました。ちなみに、持病の喘息の薬を積み忘れたために、ゲバラはしばらくの間、喘息発作が起きるたびに苦しい思いをした、と後に回想しています。
勇んで出発した革命軍でしたが、その人数はわずか82人。すぐに首都ハバナに向かい、バティスタと直接対決しても到底勝ち目はありません。まずはキューバ国内に活動を移して、兵力の増強に努めなければなりません。カストロは、キューバ島の数か所に上陸の際の後方支援を行う部隊を予め組織し、上陸後は速やかに合流する手はずを整えていました。対するバティスタ政府軍は、既に「7月26日運動」のキューバ上陸作戦に気付いており、沿岸警備隊は監視対象船舶リスト(グランマ号もリストに含まれていました。)を手にして警戒活動を強化していました。さらに、C47やB25などの戦闘機も空から警戒していました。
しかし、この時は悪天候が続いたため、グランマ号は転覆の危機にさらされながらも、政府軍に発見されることなく、12月2日明け方、なんとかキューバ島南東部のラス・コロラダス海岸に上陸することができました。ところが、そこは当初予定されていた地点とはまったく異なる場所だったので、予定されていたキューバ島の後方支援部隊の支援を受けることはできませんでした。ゲバラは後に「上陸とは言えず、遭難だった」と語っています。」
日本史好きおじさん
「悪天候だったのは結果的にOKだったんでしょうね。政府軍に途中で発見されたら、上陸すらできなかったでしょう。」
big5
「グランマ号に海戦用装備や対空装備などありませんから、政府の海軍や空軍に攻撃されたらひとたまりもなかったでしょうね。さて、キューバ島になんとか上陸したカストロらはグランマ号を下りて、マングローブ地帯を抜け、眼前にそびえるマエストラ山脈(シエラ・マエストラ、とも。「シエラ」はスペイン語で「山脈」の意味)に向かって歩き始めました。一方、遺棄されたグランマ号は地元漁民が発見して政府に通報すると、政府軍は警戒を強めます。この時、カストロら200人の武装集団が上陸したという噂が広まっていきました。実際は82名なので、噂は2.5倍になっていたわけです。
12月5日午後、カストロらはアレグリア・デル・ピオのサトウキビ畑のそばで休んでいました。午後5時頃、農民から通報を受けた政府軍が休息中の革命軍を襲撃。革命軍メンバーはサトウキビ畑の中に逃げ込みましたが、この襲撃で3名が死亡し、ゲバラも首と胸を負傷しています。それからしばらくの間、革命軍は政府軍から逃げ回るだけで精いっぱいでした。数日の間に21名が捕えられて殺され、メンバーは散り散りになってしまいました。
この時に、ゲバラが書いた日記が、ゲバラの人生観を示しているとして有名になっています。政府軍から追われて逃げる時、メンバーの一人が二つの箱を置いて逃げて行きました。箱の一つには弾薬が、もう一つには薬が入っていました。ゲバラは、逃げようとするメンバーに箱を指さして怒鳴りましたが、メンバーはそれどころではない、と言って逃げて行きました。どちらか一つだけの箱しか持って逃げることはできないと判断したゲバラは迷いました。弾薬を選ぶか、薬を選ぶか。自分は医師なのか、革命家なのか。そして、ゲバラは弾薬の箱を選んで逃げたそうです。
散り散りになった革命軍はお互いに連絡を取ることもできず、マエストラ山脈をさまよっていました。ゲバラは、革命軍唯一の黒人リーダー、フアン・アルメイダ・ボスケ率いる8人の部隊と共に行動していました。やがて「カストロは死んだ」という噂が広まり、12月半ばにはマエストラ山脈に配備された政府軍のほとんどが警戒態勢を解いて撤収を始めます。これがきっかけとなり、余裕ができた革命軍は生き残りメンバーが再集結し、活動を始めました。ゲバラは医師として農民らに医療を施し、農民からの信頼を得ることに成功しています。革命軍は周辺住民の支持を得てマエストラ山中に安定したアジトを築き、政府軍に対するゲリラ戦の準備を着々と進めていきました。」

キューバ革命(前篇) 略年表        
1952年

バティスタがクーデタにより大統領となる
1953年
7月26日カストロのモンカダ兵営襲撃事件
1955年
カストロとゲバラの出会い
1956年
12月カストロ、ゲバラら革命軍がキューバに上陸


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