Last update:2016,Feb,27

米西戦争(Spanish-American War)とアメリカ従属

2回目のキューバ独立戦争
big5
「2回目のキューバ独立戦争の話に入る前に、まずはキューバ独立の父としてキューバの人々に讃えられているホセ・マルティ(Jose Julian Marti 以後「マルティ」と記載)の話から入っていきましょう。
マルティは1853年1月28日にハバナで生まれました。最初の独立戦争が始まった1868年、15歳だった青年マルティは、当初から革命軍による独立運動に加わって活動していたそうです。」
高校生A
「僕らとだいたい同じ歳で革命運動に参加するなんて、すごい人だったんですね。」
big5
「そうですね。それに、環境が現代日本とはまったく異なりましたからね。現代日本も、それなりに問題を抱えていますが、植民地キューバでは、現代日本が当たり前に備えていること、例えば自分たちの政府による自治などが、備わっていませんでした。
さらにマルティには恵まれた文才がありました。革命運動を進めるに当たり、スローガンを作ったり、革命を推進する作文をしたりと、思想面での活躍が多かったそうです。ただ、そのためにスペイン政府から「危険人物」と見なされ、マルティは逮捕されてスペイン本国に追放されてしまいました。
スペインに着いたマルティは、サラゴサ大学で法律と文学を学ぶと、再び革命運動を始めます。1881年(28歳)にベネズエラに移り、キューバ独立運動の機関誌を発行しようとしましたが失敗。アメリカのニューヨークに移って『La Patria(祖国、の意)』を発行し、キューバ独立とラテンアメリカ諸国の連携を唱えました。マルティは「人間は本来自由な生物である。自由の実現こそ、人間の義務である」と考え、あくまでキューバ独立を目指しました。キューバ人の中には、奴隷制から解放されたことで良しとし、近くの大国アメリカと統合するのがよい、と考える人もいましたが、マルティはあくまで独立を目指し、ラテンアメリカ各地でキューバ独立運動を進めていきます。
マルティはラテンアメリカ周辺をあちこち移動しながら、キューバ独立運動を進めていました。マルティは、キューバ人の富裕層出身の女性と結婚し、子供もいたのですが、奥さんは革命運動ばかりに夢中になっているマルティに愛想を尽かし、ニューヨークに移る前に子供を連れてマルティのもとを去ったそうです。」
日本史好きおじさん
「やっぱり、女性には男のロマンはわからないんですね。植民地となっている祖国の独立達成は、人生を賭けるに値する大仕事ですよ。それがわからないなんて・・・」
名もなきOL
「ちょっと待ってください。ロマンを持つのはいいと思うんですけど、実際の生活はどうするんですか?マルティさんは、あちこち渡り歩いていたそうですけど、ちゃんと生活費を稼いでいたんですか?それができないなら、奥さんが愛想を尽かすのもわかります。」
日本史好きおじさん
「いやいや、祖国の独立達成という大望を抱えている方が大事ですよ。日々の生活なんてどうとでもなりますって。そもそも・・」
big5
「まぁまぁ、二人ともその辺にしておきましょう。男のロマンと日々の生活の話は、また別の機会にすることにして、今はマルティの話に戻ります。さて、マルティには革命運動家としての顔以外に、もうひとつ重要な顔を持っていました。それは「詩人」です。文才に恵まれていたマルティは、スペインの影響から脱した近代的な詩を創りだしていきました。素朴な人間感情にあふれながら、近代的な感覚を持っていたため、「モデルニスモ」と呼ばれるラテンアメリカ詩の近代化の先駆者として、マルティの名が挙げられています。
これは、マルティがキューバ人に与えた影響を考える上で、とても重要な意味を持っています。マルティの詩は、キューバ人達に「自分たちの国キューバ」という意識を植え付けていくのに、大きな役割を果たしたわけです。ペンは剣より強し、という言葉がありますが、マルティはまさにこれに当てはまる人物だったと言えるでしょう。
しかし、マルティの活躍は残念ながら長くは続きませんでした。1892年(39歳)にキューバ革命党の総裁となり、1895年1月、ゴメスら武装革命家を率いて2回目となるキューバ独立戦争を開始します。4月にはキューバ上陸に成功しましたが、政府軍との戦闘で銃撃を受け、5月19日にオリエンテ地方のドスリオスで死去しました。42歳でした。」
日本史好きおじさん
「独立戦争はどうなったのですか?」
big5
「ゴメスが革命軍の指揮を執り、戦いは続いたのですが、ここで巨大な第三者が登場します。そう、アメリカ合衆国です。」

米西戦争
big5
「実は、これよりも前から、アメリカ合衆国ではキューバに対して介入すべきではないか、という世論が起こっていました。最初の独立戦争といえる十年戦争(1868〜78年)の時は、アメリカ合衆国国内の内戦「南北戦争」が1865年に終結して間もない頃だったため、キューバ干渉論はあまり流行りませんでしたが、南北戦争が終わり30年が経過した、2回目のキューバ独立戦争は、アメリカ合衆国内で大きな話題になりました。」
日本史好きおじさん
「なぜアメリカで、キューバ干渉論が流行ったんですか?」
big5
「その理由はいくつか考えられますが、そのうちの一つは「文明国の責任」
という考え方でした。
南北戦争が終結し、名目上は黒人奴隷を解放していた(実態はさておいて)アメリカにとって、キューバに圧政を敷くスペインのやり方は「文明国」のやり方ではない、ということです。これに加えて、新聞各社がスペインの圧政を大々的に取り上げて何度も報道しました。ただ、これらの報道内容は眉唾的な内容も多く、販売部数を伸ばさんがために捏造された記事も多かったそうです。そんなこんなで、アメリカ世論はスペインを非難し、キューバ人に同情し、そしてキューバ独立戦争に介入すべき、と変化していったわけです。」
名もなきOL
「そんなこと言っても、南北戦争が終わる前は、アメリカだって奴隷制があったんですよね?自分のこと棚に上げて、よくそんなことが言えるな、って思います。」
big5
「そのとおりだと思います。ただ、アメリカ合衆国は、イギリスの植民地から始って、独立戦争を経て独立を勝ち取った、という経緯があります。そういう意味では、アメリカの政治体制は「民主的」なものなんですね。しかし、キューバの場合は、大航海時代以来、いまだにスペインの支配下にありましたので、「民主的」とは到底言えません。そういう観点からの違いは、確かにありますね。
もう一つの理由としては、「アメリカ海外進出政策の第一歩」が挙げられます。1861年〜1865年の南北戦争の戦禍は、アメリカにとって大きな痛手となりました。国内の荒廃はもちろんですが、それと同時に海外進出にも大きく遅れが生じていました。19世紀は、イギリス・フランスなど軍事力で優位に立ったヨーロッパの強国がインド・東南アジア・東アジアを次々と植民地として自国の縄張りとする帝国主義の時代でした。アメリカは、南北戦争という激しい内戦が勃発してしまったために、イギリスやフランスなどと比べると、海外進出は完全に遅れていたのです。そんなアメリカにとって、フロリダ半島の先にあるキューバは、最初のターゲットしてちょうどよかったと言えるでしょう。」
高校生A
「帝国主義の時代ですね。センター試験でもしばしば出題される話です。」
big5
「そんな中、アメリカがスペインに宣戦布告する口実となる「メーン号爆沈事件」が起きました。
1898年2月15日、ハバナの港に停泊していたアメリカの軍艦メーン(Maine)号が原因不明の爆発で沈没し、260人が死亡するという事件です。爆発の原因は不明なのですが、合衆国内の売上優先型の新聞社は、スペイン軍の仕業であると決めつけて、国民を煽りました。世論は、キューバ干渉論とスペインへの報復を求める世論は沸騰します。当時のアメリカ第25代大統領・マッキンレー(William Mckinley:55歳)は、スペインに対してキューバへの自治権付与と内乱の早期終結を要求しました。しかし、スペインはこの干渉に応じなかったため、4月11日、マッキンレーは議会に開戦の教書を送り(つまり、大統領が戦争を始めることを議会に提案した、ということ)、議会も4月20日に開戦を決議。アメリカとスペインの戦争が始まりました。この戦争は米西戦争とか、アメリカ=スペイン戦争と呼ばれています。」
高校生A
「米西戦争は世界史の教科書でも見たことがあります。」
big5
「米西戦争は、特に戦争の結果アメリカが得たものについて問われることがよくありますね。
さて、米西戦争は早期に決着がつきました。最初の戦闘は5月1日から始り、10週間でアメリカ圧勝で幕を閉じました。アメリカ軍はキューバのみならず、東隣のプエルトリコを占領した他、太平洋方面ではフィリピンのマニラ湾で、アメリカ艦隊6隻が10隻のスペイン艦隊を壊滅させています。
アメリカ軍の全損害は5,462名で、このうち戦闘での戦死者は379名となっています。残りの約5,000名は伝染病による死亡などとなっており、戦闘中の死者の10倍以上が戦闘以外の要因で死亡している、という結果が残っています。

米西戦争の平和条約は12月10日にパリで調印されました。勝利者のアメリカは、スペインからキューバとプエルトリコ、そして太平洋方面ではグアムとフィリピン諸島を獲得しました。このなお、フィリピン領有については、アメリカ国内で反対論もありました。「大陸以外に異質の住民がいる土地を得ることは帝国主義的である。」という意見だったそうです。アメリカが帝国主義の道を歩むことを危惧する意見だったようですが、結果として、米西戦争の勝利により、アメリカはカリブ海沿岸地域と東アジア(特に中国)への植民地拡大を進めるきっかけとなりました。」

プラット修正とキューバの保護国化
big5
「上のように、2回目の独立戦争はアメリカの介入により、アメリカ vs スペインの戦争へと取って代わられました。米西戦争の結果、キューバはいったんはスペインから独立を果たしましたが、これはあくまで表面上の話。アメリカの狙いは、キューバを今後のカリブ海政策の基地とするために、キューバをアメリカの保護国とすることにありました。1901年、アメリカ上院議員のプラット(Orville Hitchcock Platt:74歳)らが中心となり、独立したキューバの新憲法の「付帯条項」として強制的に追加させたのです。付帯条項は8項目から成り、その主な内容は、
1.キューバはアメリカの同意なしで外国と条約を結んだり、外国から借金をしてはいけない。
2.キューバはアメリカ軍が使用する基地を提供する。
3.アメリカはキューバにいろいろ干渉する権利を持つ。
となっています。」
日本史好きおじさん
「外交権を制限したり、アメリカ軍がキューバに駐留していたり、完全にアメリカの保護国となる内容ですね。」
big5
「そのとおりですね。これらの「付帯条項」はプラット修正と呼ばれ、キューバがアメリカの保護国となったことを示すものでした。このような条項は、当然キューバの憲法制定会議には嫌がられました。これでは、スペイン支配からアメリカ支配に変わるだけで、キューバの独立は達成したことにはなりません。しかし、当時のキューバにアメリカの要求を突っぱねる力はありませんでした。また、帝国主義の時代ではこのように強国が弱国を支配することはむしろ当然のように行われていました。プラット修正はキューバ新憲法に受け入れられ、1934年に廃止されるまで33年間、有効に機能していました。」
日本史好きおじさん
「プラット修正は、キューバ革命まで存続していたのですか?」
big5
「いえ、キューバ革命の時には廃止されていました。1934年、第32代アメリカ大統領・フランクリン・ローズベルトの「善隣外交」政策の一環として、プラット修正がキューバ憲法から削除され、表面的には保護国から脱却したかのように見えました。この辺は後でまた出てきます。」

続く独裁政権と汚職
big5
「アメリカの保護国としてのキューバは、スペインによる植民地支配の時に比べれば、悲惨な状況は多少は改善されたようですが、真の独立を求めるキューバ人を満足させられる内容ではありませんでした。1925年、キューバ島の都市・カマフアニ出身のリベラル党党首マチャド(Gerardo Machado y Morales:54歳)が大統領に就任しました。マチャドはキューバ独立運動にも参加した人物です。しかしマチャドは「米西戦争後、最初の独裁者」と評価されています。1933年、民族主義者たちが独裁者マチャドを倒すべく軍が反乱を起こしたため、マチャドは国外に逃亡し、再び政治家としてキューバに戻ることはありませんでした。マチャドは1939年3月29日、アメリカのマイアミで死去しています(享年68歳)。
軍による反乱で、一気にキューバの政権の座にまで上りつめたついたのがバティスタ(Fulgencio Batista y Zaldivar:32歳)です。バティスタは、反乱前の階級は軍曹でしたが、民族主義者らの政権に合流して一躍大佐に昇進、参謀長となって軍の実権を握りました。そして、翌年の1934年には軍を使って民族主義派を追い落とし、真の実力者としてキューバに君臨しました。まぁ、キューバの独裁者がマチャドからバティスタに変わっただけですね。1940〜44年に大統領として務め、1948年に上院議員となりましたが、バティスタの独裁は続きました。
ちなみに、バティスタが敬愛する歴史上の人物は、「奴隷解放宣言」で有名なアメリカ大統領:リンカーンです。バティスタ独裁政権は、親アメリカ政策を徹底し、アメリカ企業がキューバ産業の主要部分を支配し、政治的にも経済的にもアメリカによるキューバ支配はむしろ強化され、貧富の差は拡大していきました。
そして、有名なキューバ革命を迎えることになります。

米西戦争とアメリカによる支配 略年表              
1895年

2回目の独立戦争 開戦
1898年
5月1日米西戦争 開戦
12月10日米西戦争 終結
1901年

プラット修正 キューバはアメリカの保護国となる
1933年

軍の反乱により、マチャド独裁政権が打倒される
1934年

プラット修正が廃止される

バティスタがキューバの独裁者となる

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3.キューバ革命(前篇)

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