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「今回の主題はフィンランド独立です。フィンランドの歴史については
中世のフィンランド
自由と革命の時代 フィンランド大公国の誕生
しのぎを削る列強 フィンランド 自由化からロシア化へ
で見てきたとおり、フィンランド大公国として大幅な自治が認められてきましたが、19世紀後半からはロシア化が強制されるようになりました。人々はフィンランドの自治権維持、さらには独立を考える派閥も登場し、時代は第一次世界大戦に突入します。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。」
| 年月 | フィンランド | その他 |
| 1907年 | 第一回普通選挙 | |
| 1908年 | ニコライ2世が議会を解散させる。以後、毎年解散させる。 | (土)青年トルコ革命 |
| 1910年 | ロシアの法律がフィンランドにも適用される | |
| 1912年 | 平等法 ロシア人もフィンランド市民権を持ち、官僚にも就任可能となる | 第一次バルカン戦争 開戦 |
| 1914年 | 7月 第一次世界大戦勃発 | |
| 1917年 | 12月6日 フィンランド独立宣言 | 3月 ロシア三月革命 11月 ロシア十一月革命 |
| 1918年 | 1月27日 フィンランド内戦 勃発 3月 白衛隊の東カレリア遠征 5月16日 マンネルヘイムが勝利宣言 フィンランド内戦終結 |
3月 ブレスト=リトフスク条約でドイツ・ロシアが単独講和 |
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「日露戦争後のロシアで起きた一連の革命騒ぎ(第一次ロシア革命)により、普通選挙制を実現したフィンランドでしたが、ニコライ2世は当然納得していません。1907年に最初の普通選挙が行われ、議会が成立したのですが、1908年にはニコライ2世が解散させてしまいました。それ以降も、毎年議会を解散させています。なので、普通選挙が導入されたといっても、議会活動はほとんど行われない、という結果でした。これでは、フィンランド側が納得できません。
それどころか、1910年にはロシアの法律がフィンランドでも適用されるようになり、1912年には平等法が制定され、ロシア人にもフィンランド市民権が与えられました。一見すると、特に問題ないように見えますがそんなことはありません。この方により、ロシア人がフィンランド官僚になることも可能になったため、フィンランド行政についても高級役職はロシア人が占めるようになりました。このままではフィンランド大公国は名実ともにロシアの傀儡国家に成り下がってしまう・・。フィンランド人の多くがそのような思いを抱くようになった時、第一次世界大戦が始まりました。」
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「1914年7月、第一次世界大戦が始まると、フィンランドはロシア軍の一部としてドイツとの戦いに加わりました。ドイツ軍の攻撃に備え、フィンランド南部沿岸地帯に要塞、塹壕、防空壕が作られました。これらは「ロシアの防波堤」と呼ばれています。また、バルト海沿岸の港にはロシア艦隊が停泊し、フィンランド国内にもロシア兵が多数駐留します。中には、自ら志願してロシア軍に加わったフィンランド人もいましたが、この時点で既に将来の独立戦争の準備として、約2000人もの若者が「イェーガー(ヤーカリ)隊」を組織し、集団でドイツ軍に加わって軍事訓練と実戦経験を積む者もあらわれました。
1917年3月、ロシアのサンクトペテルブルクで大規模なストライキが始まって全土に広がり、ついにニコライ2世は退位に追い込まれました。3月17日、ケレンスキー(1881〜1970年)が臨時政府を樹立すると、フィンランドに対してはロシア化政策の停止を宣言しました。フィンランドにとってはいいニュースでしたが、革命がもたらした大混乱はフィンランドに深刻な食糧危機をもたらしました。これまで、フィンランドは穀物の多くをロシアからの輸入に頼っていたのですが、革命によってロシアの穀物輸出はほぼストップ。フィンランドでは価格が高騰したため、食料は配給制に切り替わりました。」

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「一方、フィンランド政治は運命の分岐点に立たされていました。どの党もこの機会に独立する、という点では同じでしたが、ロシアとの関係をどう扱うかについては意見が分かれていました。フィンランドが態度を決めかねている間に、ロシアではレーニン率いるボリシェヴィキがケレンスキーらを追放し、共産主義政権を確立すると、フィンランドの世論は2つに割れました。」
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「左派の社会民主党はボリシェヴィキ政権との連携を狙いましたが、スヴィンフッウド率いる青年フィン人党は完全独立を主張しました。12月4日、どちらの立場を取るかについて議会で投票が行われ、その結果100対88で青年フィン人党あ勝利。1917年12月6日、フィンランド独立宣言が発表されました。フィンランドから代表団がサンクトペテルブルクに派遣されました。代表団は独立する旨をレーニンに伝え、レーニンも独立の承諾。スウェーデン、フランス、デンマーク、ノルウェー、ドイツも承認しましたが、イギリスとアメリカは、第一次大戦中のドイツに味方する可能性を考慮したため、1919年5月まで承認しませんでした。とはいえ、フィンランドの独立は平和になされた・・かのように見えました。」
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「独立を果たしたフィンランドでしたが、独立後の国家運営の方針については意見が分かれたままでした。左派の社会民主党は、レーニンのソ連と連携する、つまり社会主義国となることを目指しましたが、右派の白衛隊は社会主義国などありえない選択肢です。左派は赤衛隊、右派は白衛隊という自警団を組織し、お互いをけん制していました。
独立宣言からおよそ1か月後の1918年1月9日、ヘルシンキ近くのニッキラで、白衛隊と赤衛隊の最初の衝突が発生しました。1月13日、レーニンは当然のように赤衛隊を支持したので、1万丁のライフルと10門の大砲を供与することを約束しています。また、フィンランドに駐留していたロシア軍は、革命・独立に伴い撤退していたのですが、この時に武器弾薬を赤衛隊に引き渡していました。白衛隊も赤衛隊も職業軍人ではなかったので練度はお互い低かったのですが、武装は赤衛隊が圧倒的に充足していました。
1月16日、政府はロシア軍で活躍していたフィンランド人のマンネルヘイム(1867〜1951年)を招いて総司令官に任命。白衛隊を政府軍だと宣言しました。これに対し、赤衛隊は1月27日に自らを革命政権と名乗って蜂起し、本格的な内戦が始まりました。フィンランド内戦の概要を表にまとめるとこのようなかんじです。」
| 白衛隊 | 赤衛隊 | |
| 兵力 | 8〜9万 うち、スウェーデン義勇兵1100 |
8万4000 うち、ロシア義勇兵4000 |
| 構成 | 地主、資産家、都市の役人などブルジョワ階級 | 労働者、貧農 |
| 外国支援 | ドイツ軍バルト師団9,500(12,000説も) | ソ連の武器供与 |

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「フィンランド内戦の期間は約3か月半と短いですが、詳細を見ていくといろいろな話が出てきます。特に目を引くのが「白テロル」「赤テロル」と呼ばれる虐殺事件です。両陣営ともに相手への報復として民間人虐殺が行われ、その犠牲者数は1万人に及ぶ、と見積もられています。たいへん残念なことに、内戦に民間人虐殺はつきものです。フィンランド内戦も例外ではありませんでした。
開戦当初は、武器弾薬が充足していた赤衛隊が圧倒的優勢でした。トゥルク(オーボ)、タンペレ、ヴィープリ、ヘルシンキなどの重要都市を含む南部を制圧し、自らが名実ともにフィンランドの政府であることを宣言。ソ連と友好条約を結んだりしました。しかし、形勢は徐々に白衛隊に傾いていきます。2月には、ドイツ軍に参加していた「イェーガー隊」が白衛隊に合流し、4月にはドイツ軍のバルト師団9,500が援軍として到着。赤衛隊は拠点を次々と失い、ソ連へ逃げていきました。5月16日、マンネルヘイムが勝利宣言を発表し、フィンランド内戦は終結しました。」
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「フィンランド内戦中に、白衛隊がソ連領東カレリアに侵攻して一時的に占拠する、という事件がありました(白衛隊の東カレリア遠征)。これはこの頃に流行した思想である大フィンランド主義に基づいた行動です。フィンランド人は基本的にフィンランド国内に住んでいるのですが、一部はロシア領に住んでいたり、フィンランドとロシアの間のカレリア方面に住むカレリア人は、フィンランド人とのよく似ている、近親民族でした。フィンランドの政治団体の中には、カレリア人もフィンランドと共にロシアから独立すべき、という考えていました。この思想は「大フィンランド主義」と呼ばれます。「大ドイツ主義」とか「汎〇〇主義」と同様ですね。
マンネルヘイムは宣戦布告無しで白衛隊を送り込み、占領に成功します。ところが、現地のカレリア人はロシア文化に慣れており、フィンランドに加わって独立する、という風潮は極めて低いものでした。それでも、大フィンランド主義の熱心な支持者らは東カレリア支配を継続しようとしましたが、結局は失敗に終わっています。
というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」
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