ピサロたちのとインカ帝国征服 略年表

   
1522年

ピサロ(47?)とアルマグロ(47)がラテンアメリカ西岸の探検に出発
1523年
1524年
1525年

インカ皇帝ワイナ・カパックが死去 皇帝位をめぐって内乱が始まる
1526年
1527年
1528年

ピサロ(53?)が国王カルロス1世からインカ帝国征服の許可を得、貴族に列せられる
1529年
1530年

ピサロ(55?)がパナマに帰還。遠征の準備に取り掛かる
1531年

ピサロ(56?)がインカ帝国に侵入
1532年

ピサロ(57?)を味方につけたアタワルパが兄のワスカルを倒し、皇帝に即位
1533年
8月29日アタワルパがカハマルカにて処刑される インカ帝国滅亡
1534年
1535年

新首都リマが造られる
1536年

インカ人の反乱勃発
1537年

ピサロ兄弟とアルマグロ(62)の対立、内戦始まる
1538年
4月25日アルマグロが敗北し、クスコで処刑される
1539年

ゴンサロ・ピサロがキトの総督に任命される
1540年

エルナンド・ピサロがアルマグロ処刑の罪に問われ、監禁される
1541年
6月26日ピサロ(66?)がアルマグロの残党らに暗殺される
1542年
1543年
1544年

副王の着任にあたり、ゴンサロ・ピサロが反乱を起こす
1545年
1546年

ゴンサロ・ピサロがアナキトの戦いで副王を破る
1547年
1548年
4月10日ゴンサロ・ピサロが敗れ、クスコで処刑される

ピサロ
フランシスコ・ピサロ(Piszarro Francisco 以後、単純に「ピサロ」と表記)は、1475年頃、トルリヒョで生まれました。1510年(この時35歳?)、A・オヘダのラテンアメリカ遠征隊に参加して以来、南アメリカの探検・征服事業に加わり、1513年のバルボアの太平洋発見にも同行していました。この頃、ピサロはパナマから南方に下ったところに、黄金溢れる豊かな国がある、という話を聞いていたそうです。1522年、ピサロはH・ルケ・アルマグロと協力して、パナマからラテンアメリカ西海岸を探検しました。その探検の結果、インカ帝国(現在のペルーあたり)の存在を確認しました。1528年、いったんスペインに帰国したピサロは、国王カルロス1世を説得し、インカ帝国征服の許可を取り付けたうえに、部下と共に貴族に列せられました。1530年、パナマに戻ったピサロは遠征軍を準備し、1531年(この時56歳?)、異母弟のゴンサロ・ピサロ(29歳?)、同じく異母弟のエルナンド・ピサロ(27歳?)185人の兵、37頭の馬、船3隻を率いてインカ帝国に向かいました。
一方この頃、インカ帝国は皇帝の地位を巡って兄弟が骨肉の争いを繰り広げる内乱状態にありました。ピサロがインカ帝国に向かう6年前の1525年、インカ皇帝ワイナ・カパックが死去した後、帝国は兄のワスカルと弟のアタワルパ(生年不詳)に2分して与えられました。弟のアタワルパには北部のキト地方を与えられましたが、アタワルパはこれに不満で、兄のワスカル相手に紛争を繰り返していたのです。これは、インカ帝国にとって大きな損害をもたらしていたようです。というのも、インカ帝国は政治・軍事・宗教の面で皇帝が絶対的なトップに君臨する形だったため、2人の兄弟が皇帝位を巡って争い始めると、帝国の至るところに支障が出てしまったようです。ピサロが征服に乗り込んだ時、インカ帝国はこのような混乱状態にありました。

インカ帝国滅亡
インカ帝国に乗り込んだピサロは、まずアタワルパの味方となりました。アタワルパも、ピサロらの軍事力を利用し、1532年には兄のワスカルを倒し、念願であった皇帝に即位しました。しかし、インカ帝国征服を目的としてやってきたピサロが、その後もアタワルパに尽力するはずもありません。アタワルパはピサロの謀略によってカハマルカで捕えられ、傀儡として利用され、莫大な金を収奪された揚句、1533年8月29日、カハマルカにて処刑されました。こうして、ピサロの侵入後わずか2年でインカ帝国は滅びました。
世界遺産に登録されているマチュピチュ遺跡。計画的に建設された城塞都市の跡。ペルー南部、クスコの北西約70Kmに位置する。スペイン人による占領・略奪を受けうなかったが、その後人々に忘れ去られていたため、インカ文明の面影を良く残している。1911年、アメリカ人考古学者・ビンガム(H.Bingham)によって発見された。四方が絶壁となっている天然の要害で、神殿、大邸宅、兵営、一般住宅、貯蔵庫さらには耕地まで備えており、孤立しても完全自給自足が可能であった、と考えられている。現在では、観光地として世界的に有名。
画像提供元:写真素材-フォトライブラリー

ピサロらのその後
インカ帝国を征服したピサロは、1535年に太平洋に注ぐリマック川河口付近に新首都となるリマを建設し、現在のペルーとボリビアにあたる地域を支配しました。1540年には、ペルー南部のミスティ火山麓の高原にアレキパを建設。現在もアレキパは羊毛やアルパカ毛の取引が盛んな商業都市となっています。しかし、その政権は反乱と内紛続きでたいへん不安定なものになりました。1536年にはインカ人が反乱を起こし、クスコが攻撃されましたが、エルナンド・ピサロが指揮を執って防衛に成功。その後、チリ遠征を行って失敗したアルマグロとピサロ兄弟らが対立し、1537年から内戦に突入。アルマグロはクスコを攻撃し、エルナンド・ピサロを捕えます。しかし、エルナンド・ピサロは釈放された後に反撃に転じてアルマグロを攻撃して捕え、1538年4月25日、クスコにてアルマグロ(63歳)を処刑しました。
アルマグロを排除したピサロは、1539年、異母弟のゴンサロ・ピサロをキトの総督に任命。しかし、その支配体制は間もなく終焉を迎えます。まず、エルナンド・ピサロはアルマグロを処刑した罪を問われ、1540年、王の命令で捕えられ、スペイン本国にて20年間の監禁生活を送り、1578年頃に死去したといわれています(享年74歳?)。1541年6月26日には、ピサロがアルマグロの部下を中心とした残党らによって、リマで暗殺されました(享年66?歳)。
残った異母弟のゴンサロ・ピサロは、この時キトからアンデス山脈を越えてアマゾン川流域を探検しており、この時に兄の死を知らされました。1544年、新統治者となる副王が着任した際にゴンサロは反乱を起こし、1546年、アナキトの戦いに勝利し、副王を処刑します。しかし、1548年に副王軍を率いたP・デ・ラ・ガスカ司教に敗れ、4月10日、クスコにて処刑されました(享年46歳?)。

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