黒人奴隷貿易


これまで見てきたように、大航海時代はポルトガルとスペインに大きな変化をもたらしました。

・ポルトガル:アフリカ大陸南端の喜望峰を回る航路でインドに到達。そこからさらに足を延ばして東南アジア、中国、さらには日本にまで至る。香辛料貿易に参入し、商売敵のイスラム商人らは武力で攻撃。
・スペイン:コロンブスによって開かれた新世界・アメリカ大陸を探検・征服。アステカ帝国、インカ帝国など現地勢力を支配下に置いて植民地化。

これにより、黒人奴隷貿易の下地ができあがりました。まず、黒人奴隷を必要としたのは主にスペインが支配するアメリカ大陸の植民地でした。植民地では、ヨーロッパ人がサトウキビ農場などを経営しており、その労働者となったのは、最初は被征服者であるインディオ、その後はアフリカから強制連行されてきた黒人奴隷でした。この頃の植民地の労働環境は現代人の感覚から考えると、「苛酷」というよりも「虐待・収奪」と表現する方が正しいほど非人道的なものでした。黒人奴隷は「人」ではなく「モノ」として扱われ、ほぼ無料ともいえる低コストで酷使される労働力でした。現代日本のブラック企業(何だかんだ理由をつけて残業代を払わない、休日が取れない、など)の方がだいぶマシに見えるくらいです。植民地が大きな利益を確保しながら経営できたのは、労働者である黒人奴隷をほぼタダで使えたことにある、とも言われています。
次に、黒人奴隷の供給について。黒人奴隷が輸出されたのは、セネガル以南のアフリカ西岸からインド洋側のモザンビークに至る海岸エリアでした。奴隷を集める方法として、様々なやり方があったようでしたが、一般的な方法は、アフリカ部族の酋長らと物々交換で取引する方法が多かったようです。アフリカには無数の部族が住んでおり、友好関係にある部族もあれば、敵対関係にある部族もありました。奴隷商人らはこれを利用しました。一方の部族の酋長に肩入れし、その酋長が敵対部族と武力抗争を起こして捕虜を獲得し、奴隷商人にその捕虜を引き渡しました。この捕虜が黒人奴隷としてなります。奴隷商人は、奴隷の対価として酒や使い古した火縄銃(とその弾薬)などを支払ったようです。奴隷商人らが自らアフリカに武器を持って乗り込み、ある部族の村を襲撃して黒人を捕まえる、という方法も無くはなかったようですが、一般的なやり方では無かったようです。アフリカ部族の酋長達にも問題があり、彼らの中には酒や中古火縄銃を目的に戦争を起こすことも多くなったため、アフリカの荒廃は日に日に進んでいきました。
こうして捕えられた黒人奴隷らに人権などなく、奴隷船に「モノ」として満載されました。その環境は劣悪を極め、すし詰めの満員電車のような状態で数カ月にわたって大西洋を超えるというものでした。この地獄の航海中の最中に奴隷が死ぬことは日常茶飯事であり、奴隷の死亡率が10%を下回ることはほとんどなかったそうです。この苦難を乗り越えて生き残った人々を待ち受けているのは、ただただ、経営者のために働かされる奴隷人生でした。奴隷らはカリブ海の島々や大陸のサトウキビ畑などで、死ぬまで働かされていたのです。
黒人奴隷の取り扱いを知る史料の一つに、フランスの植民地で定められた法律があります。その内容を見てみると、

第16条
異なる主人の所有下にある奴隷は、昼であれ夜であれ、集まってはならない。禁を犯す者は、少なくとも、鞭打ちあるいは百合の紋章の焼印を(背中に)押すという体罰に処せられる。違反が頻繁に繰り返された場合、あるいは悪化した場合は、その奴隷を死刑にすることができるが、その判断は判事に委ねられる。官吏でなくとも、また逮捕令状がなかったとしても、我々はすべての臣民に対し、法を犯した者を告発し、拘束し、投獄する権限をゆだねる。

第33条
主人やその妻、あるいは女主人やその夫、またあるいはその子供に打撲や流血をともなう強打を加えた奴隷は、死をもって処罰される。

第38条
逃亡を試みた奴隷は、主人が法廷に通告した日から1ヶ月間逃げ続けた場合、耳を切って肩に百合の紋章を焼印される。そして、その奴隷が通告された日以降も違反を繰り返すようであれば、膝の裏側を切られ、もう一方の肩にも百合の紋章が焼印される。3度目は死をもって処罰される。
(アンティル諸島に関する「黒人法典」(1685年3月、ヴェルサイユ)からの抜粋。イザンベール編「旧フランス法令集」より。)

現代の感覚からすれば、非人道的であることは明白でしたが、黒人奴隷は植民地経営に無くてはならないものとなりました。大航海時代が終わった後、海上貿易の主役がポルトガルからオランダに移りますが、17世紀のはじめにオランダ人は西インド諸島への奴隷の定期的供給のために会社を設立しています。18世紀にはオランダに代ってフランス・イギリスが「奴隷海岸」に拠点を設立しました。黒人奴隷の人気は高く、売値は高騰していったため、イギリスのブリストル、フランスのナントなどの港町は奴隷貿易によって繁栄を極めました。
この黒人奴隷貿易によって、連れ去られた人々は総計で900万人とも1,000万人とも見積もられており、そのうちの80%は1700年以降に連れ去られた、と考えられています。

ラス・カサスの活動

黒人奴隷貿易が始まる前、征服されたアメリカ大陸の先住民たちが虐げられている状況に怒りを感じ、改善しようと精力的に励んでいた人物がいました。スペイン人宣教師・ラス・カサスです。ラス・カサスは1474年にセビリアで生まれ、その地で聖職者になるための勉強し、1502年(当時28歳)、ヒスパニオラ島に赴き、キリスト教の布教に励みました。ヒスパニオラ島は、コロンブスに発見された後、1493年にはスペイン人が植民を開始し、当初は金の採掘や農業で繁栄していました。ラス・カサスがやってきた1502年は、大西洋側の港町プエルト・プラタの建設が始まりました。1504年には、プエルト・プラタの南方にサンティアゴ騎士団によって、サンチアゴ・デ・ロス・カバリェロスの建設が始まるなど、当時は開拓地としてたいへん賑わっていたそうです。(ただし、時が経ち、アステカ・インカの征服後は、そちらの開発に注力されたため、放置されてしまいます)。
このような中、ラス・カサスは1512年(38歳)で司祭に昇進しますが、それから少し経った1514年、インディオが不正に酷使されている現状に気付き、大いに悩みます。1519年(45歳)、ラス・カサスは、スペイン王カルロス1世の承認を得て、インディオが不正に扱われることのない「自由インディオの町」を建設して奮闘しましたが、この企画は失敗に終わりました。その後1523年(49歳)、ドミニコ会に入会し、瞑想と研究、著作に専念することになります。そのような生活をしばらく続けたラス・カサスに転機が訪れます。1542年(68歳)、メキシコのチャパスの司教に任じられたのです。高齢の身ではありましたが、ラス・カサスは1543年に渡航し、インディオ保護のために制定された法律を厳格に守らせようとしました。しかし、インディオ保護法よりも、利益優先の現地のスペイン政府の出先機関や、植民地経営者らはラス・カサスの言動に激しく反発し、何度もの応酬があったようですが、寄る年波がこたえたのか、1547年(73歳)、挫折してスペインに帰国しました。帰国後も、インディオ虐待を続けるスペインの政治経済批判を続け、1552年(78歳)の時に著した「インディアス破壊についての簡潔な報告」には、以下のように記されています。
『戦争が終わると、男たちは全員殺されてしまっており、生き残ったものはいつも若者や女や子供たちだけであった。キリスト教徒たちはその生き残ったインディオたちを仲間うちで分配しあった。…
キリスト教徒によれば、インディオたちを分配したのは、彼らにカトリックの信仰を教え、愚かで残酷な、欲深くて悪習に染まった彼らの魂を救うというのが口実であった。ところが、キリスト教徒たちがインディオたちに行った救済、あるいは、彼らに示した関心とは、男たちを鉱山に送って耐えが難い金採掘の労働に従事させることと、女たちを彼らが所有する農場に閉じ込め、頑強な男のするような仕事、つまり、土地の開墾や畑の耕作などに使役することであった。彼らが、インディオたちに与えた食物は雑草やそのほか滋養のないものばかりで、そのために出産後の母親は乳が出なくなり、大勢の乳飲み子が生後間もなく死んでしまう結果になった。』
この本は、外国がスペインの政策を非難する時の、格好の材料となったそうです。
その後、1566年7月31日、マドリードにてラス・カサスは死去しました。92歳という、当時としてはかなりの高齢でその生涯を閉じました。

なお、ラス・カサスはインディオを酷使する代わりに黒人奴隷を使うことを提案し、後に撤回したとも言われています。

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