シュマルカルデン戦争と君主戦争
ドイツでは、1531年にプロテスタント派が結成したシュマルカルデン同盟と、カトリック派との争いがやや落ち着きを見せていましたが、1546年、カール5世(46歳)とそれに従うカトリック派諸侯らは教皇から軍事資金を援助してもらい、とシュマルカルデン同盟の間で戦争が始まりました(シュマルカルデン戦争)。(ちなみに、宗教改革を引き起こしたルターは1546年2月18日、アイスレーベンでその生涯閉じています。享年63。)1547年4月、ミュールベルクの戦いで皇帝軍は大勝利し、プロテスタント派の有力者であったヘッセン伯フィリップ(43歳)やザクセン選帝侯フリードリヒ・ヨハン(44歳)は捕虜となりました。このため、シュマルカルデン同盟は事実上瓦解し、戦争は終わりました。捕えられたヘッセン伯フィリップは解放され、自領に帰還しましたが、ザクセン選帝侯フリードリヒ・ヨハンはその座を剥奪され、代わりに従兄弟にあたるモーリッツ・フォン・ザクセン(26歳 以下「モーリッツ」と表記)がザクセン選帝侯の地位と領土の東側を手に入れました。モーリッツは野心溢れる人物でした。戦争の前、彼はプロテスタントを支持していましたが、戦争が始まるとカール5世側に寝返ったのです。ザクセン選帝侯の地位と領土はその見返りとして与えられたものでした。
翌1548年、シュマルカルデン戦争に勝利したカール5世は、帝国議会にて「アウクスブルクの暫定取り決め(Augsburger Interim)」と呼ばれる、ドイツ国内新旧両教会の合同を定めた仮協定を発表、決定させました。しかし、この内容は当然のことながらカトリック側に有利なものであったため、プロテスタント側は反発し、特に北部では合同はほとんど行われることはありませんでした。
そんな中、モーリッツは新たな野望を表に出します。1551年、モーリッツはフランス王の援助を取り付け、ヘッセン伯ヴィルヘルム、ブランデンブルク辺境伯アルベルト・アルキビアデス、その他プロテスタント勢力を味方につけて軍隊を編成し、皇帝カール5世に戦いを挑みました(君主戦争)。アウクスブルク暫定取り決めに不満を持っていたプロテスタント諸侯と、カール5世の勢力を削減させたいフランス王家の利害が一致したことにより、プロテスタント側の戦力は強大なものとなりました。カール5世側はこの戦いで押しまくられ、交渉による解決を図ります。1552年8月2日〜5日にかけてバイエルンのパッサウにて、カール5世の代理人となった弟のフェルディナントとモーリッツの間で交渉が行われ、講和条約が結ばれました(パッサウ条約)。この条約で、捕虜となっていたプロテスタント諸侯は解放され、戦争は一時休戦となります。
なお、野心家モーリッツは翌年の1553年、仲間だったブランデンブルク辺境伯アルベルト・アルキビアデスと仲違して戦いを起こしています。この戦いで致命傷を受け、7月11日、ジーフェルハウゼンにて死去しました。享年32。

アウクスブルクの宗教和議
1555年、アウクスブルクにて開催された帝国議会にて、アウクスブルクの宗教和議 (Peace of Augsburg)が神聖ローマ皇帝とプロテスタント諸侯の間で結ばれました。カール5世から全権を委任されたフェルディナントは、この中でルター派の存在を公式に認め、各諸侯にはカトリックとプロテスタントを選択する権利が認められました。それぞれの領民については、領主が選んだ宗派が気に入らなければ、同じ宗派の諸侯の領土へ移住することが認められました。これは、プロテスタント諸侯らにとっては大きな躍進となりました。彼らは、自分の信仰がやっと公式に認められたことになるからです。一方、カトリック側への配慮として、カトリック諸侯が改宗してプロテスタントとなった場合、その後継者にはカトリックの者をつかせる、という保留権を認めています。
アウクスブルクの宗教和議により、ドイツ国内のカトリックとプロテスタントの争いは一時終息することとなりました。しかし、両者が和解するまでには至らず、宗派の違いはたびたび揉め事の原因となっています。そして、宗派間の争いは後に起る「ドイツ三十年戦争」の原因となったのです。
アウクスブルクの宗教和議 略年表              
1546年
2月18日ルター(63)死去

シュマルカルデン戦争 開戦
1547年
4月ミュールベルクの戦いで皇帝軍大勝利
シュマルカルデン戦争 終結
1548年

カール5世が国会でアウクスブルクの暫定取り決めを発表
1551年

モーリッツがフランスの支援を得てカール5世に戦いを挑む(君主戦争)
1552年
8月パッサウ条約締結 君主戦争 終結
1555年

アウクスブルクの宗教和議

その後のカール5世(カルロス1世)
君主戦争で劣勢に立たされたカール5世は、その後ドイツの案件は弟のフェルディナントに一任しており、実はアウクスブルクの宗教和議にもほとんど関与していなかったそうです。翌年の1556年、まずスペイン王位は息子のフェリペ(フェリペ2世)に譲り、自身はマドリード近郊のサンユステ修道院脇にある邸宅に引っ越して引退生活を送りました。それから間もない1558年9月21日、サンユステにて死去。享年58。

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