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デロス同盟 (Delian League)

ペルシア戦争がギリシアの勝利で幕を閉じてから間もない前478年。アテネを中心とするギリシアのポリス達が集まって、新たな同盟である「デロス同盟」が結成されました。デロス同盟の仮想敵国は、もちろんアケメネス朝ペルシアです。ペルシア戦争に勝利したとはいえ、それはアケメネス朝の攻撃からギリシアを防衛することに成功した、ということであり、アケメネス朝はまだまだ大きな領土を保持していました。時がたてば、再び大軍を送り込んでくることも十分考えられます。そこで、ギリシアの諸ポリスはアテネを盟主としたデロス同盟に参加し、アケメネス朝の再襲来に備えたわけです。
デロス同盟という名前は、本部である財務局が、どこの国にも属さないキクラデス諸島の島・デロス島に設置されたことが由来になっています。

アテネから東南東へ150Kmほどの地点、キクラデス諸島南部に浮かぶデロス島。面積はわずか3平方Kmの小島。古代ギリシア時代には数千人規模の人が住んでいましたが、ローマ帝国が衰退期を迎える2世紀後半の旅行記には、無人島であったと記録されています。現代になってから多くの歴史的遺構が発見され、1990年に世界文化遺産に登録されています。

デロス同盟の定期的な会議も、デロス島で開かれていました。デロス同盟は「アケメネス朝が再び襲ってきた時は、一致団結して戦いましょう」という約束を交わしただけではありません。例えば、デロス同盟で海戦用の三段櫂船を保有したりしたので、同盟を運営するために人とお金が必要でした。そこで、公明正大で有名なアリステイデスが、同盟に参加した各ポリスの年賦金(年会費みたいなものです)の金額を決定しました。年賦金を払う余裕もない、キオス、サモス、レスボスなど一部の弱小ポリスは年賦金の代わりに、三段櫂船などの現物を納めました。参加ポリスの詳細は断片的にしか残っていませんが、前425年時点で400以上あったそうです。また、同盟期間は決められていませんでした。つまり、何らかの原因で同盟が解散する(させられる)まで、ずっと同盟は続いていくことになります。同盟の政策運営については、各ポリスがそれぞれ1票の投票権を持ち、同盟の運用・政策などは会議で話し合われて決められました。
デロス同盟の活動で勇名を馳せたのがアテネのキモン(マラトンの戦いの英雄ミルティアデスの息子です)。キモンはサラミス海戦以降頭角を現し、10名で構成されるストラテゴス(将軍)に毎年選出されるようになりました。キモンはデロス同盟の総司令官に就任し、アケメネス朝の支配力が及んでいたトラキア沿岸部からアケメネス朝勢力を駆逐しています。特に、前466年頃に行われたと考えられているパンフリアのエウリュメドン河口の戦いで、200隻のギリシア艦隊を率いて倍以上のフェニキア艦隊(当時のフェニキアはアケメネス朝に従属していました)を壊滅させ、「アテネが生んだ最も有能な指揮官」として讃えられました。

テミストクレスの陶片追放
サラミス海戦などペルシア戦争でギリシアに勝利を導いたテミストクレス、彼はギリシア救国の英雄でありましたが、なんと前470年頃に陶片追放にかけられ、アテネから追放されてしまいました。追放された理由については定かではありません。考えられる理由は以下のようになっています。
1.民主派の人物であったため。ペルシア戦争後は保守派が主流になったため、民主派のテミストクレスは次第に政治力を失っていった。その傍証として、歴史の父ヘロドトスもテミストクレスを「政界の新参者であった」と評価している。
2.金銭関係で悪い噂が多かった。
3.ペルシア戦争での軍功を鼻にかけた傲慢な振る舞いが多く、市民の反感を買った。
4.テミストクレスの外交方針は、アケメネス朝とスパルタ両方を敵としていたため、危険視する者が多かった
などが挙げられます。これらの事情でテミストクレスは陶片追放されてしまいました。テミストクレスはしばらくペロポネソス半島北東部のポリス・アルゴスに滞在していましたが、さらに追及の手が及びます。スパルタがアテネに対し、テミストクレスの逮捕と処罰を要求してきたのです。その理由は、アケメネス朝と内通している、というものでした。スパルタの将軍で、プラタイアイの戦いで勝利し、その後ビザンティオンを占領したパウサニアス(5.ペルシア戦争 後篇 参照)がアケメネス朝と内通して私腹を肥やしており、テミストクレスはパウサニアスと連絡を取り合っていたため、同じくアケメネス朝に内通している疑いがある、というのです。テミストクレスは逮捕される前にギリシアを離れ、各地を流転した結果、アケメネス朝に仕えることを決心しました。時の王・アルタクセルクセス1世に、仕えたい旨の手紙を書いたところ、受け入れられました。しかし、すぐに謁見することはせず、1年かけてペルシア語とペルシアの習慣を学び、それからアルタクセルクセス1世と謁見を果たしました。ペルシア戦争でアケメネス朝を撃退した英雄が、故国を追われ、晩年は敵国であったアケメネス朝のもとで過ごすという、なんとも波乱に満ちた人生でした。テミストクレスはアルタクセルクセス1世から小アジアの都市・マグネシアを与えられ、謁見からしばらく後の前462年(460年とも)、マグネシアで死去したと言われています。享年60数年でした。

アテネ民主政の完成 そしてスパルタとの抗争再び
前464年夏のある日のこと。スパルタ地方を大地震が襲いました。震災で混乱するスパルタを見て、これを好機と捉えたヘロット(スパルタの被征服民のこと。スパルタ市民らに服従を強制されていた。)らが武力蜂起を起こしました。震災後で混乱していたということもあってか、精強で誇るスパルタ兵300の軍がヘロット反乱軍に完敗。ヘロット反乱軍はメッセニア地方の要害・イトメに籠城しました。
さすがのスパルタもこれには困り果て、ライバルであるアテネに援軍を要請します。これを受けて、アテネでは援軍を出すか出さないかで議論が紛糾しました。援軍を出すと主張したのは、デロス同盟の総司令官も務めたキモンをはじめとした貴族階級出身者達で、援軍を拒否すべきと主張したのは民主派のエフィアルテス(Ephialtes 生年不詳)らでした。結局、キモンらが議論を制し、ホプリテス(重装歩兵)4000をキモン自らが率いて出陣していきました。しかし、イトメ包囲の最中に妙な展開になります。スパルタが「アテネの革新的で不敵な態度が、反乱を助長する」という理由で、包囲軍の中から退去することを求めたのです。これは、まったく筋が通らない要求でした。そもそも援軍を要請したのはスパルタであって、アテネが頼まれてもいない援軍をよこしてきたわけではありません。しかし、スパルタが帰ってくれと言っている以上、キモンも帰らないわけには行きませんでした。こうして、援軍派遣を主張したキモンは、ほとんど何もすることなくアテネに帰って行きました。当然、アテネではスパルタの対応に怒りが集中し、前481年に結成されたギリシア連合の盟約は破棄されました。数年後、ヘロットの反乱は「反乱ヘロットらはペロポネソス半島を去る」という条件でヘロット反乱軍が開城降伏するという形で決着がつきましたが、この時アテネが反乱ヘロットらに落ち着く先を紹介・サポートしたためにスパルタの反感を買い、アテネvsスパルタという構図が再び出来上がるきっかけになりました。
一方、アテネでは前463年、エフィアルテスらが、キモンらの判断を徹底的に非難しました。この中で頭角を現しはじめたのがペリクレス(Perikles 32歳?)です。ペリクレスはキモンの弾劾で実力を認められ、エフィアルテスに次ぐ民衆派の指導者となりました。前462年(461年とも)、エフィアルテスら民主派は、キモンが不在の間に民主化改革を強行します。貴族の権力中枢は昔からアレオパゴス会議でしたが、エフィアルテスは殺人事件の裁判機能だけを残し、他の機能はすべて評議会や民会などに移してしまいました。アレオパゴス会議はもはや貴族階級の権力中枢ではなくなり、アテネの民主化はエフィアルテスの改革を以って完成した、と言われています。さらに、反対勢力のトップであるキモンは陶片追放で追放処分としてしまいました。エフィアルテス自身は、前462年(461年とも)に暗殺されてしまいますが、後継者としてペリクレスがアテネの実質的な指導者となり、後に「ペリクレス時代」と呼ばれるアテネの全盛期を迎えることになります。

この頃のアテネ自身の政治体制は民主政でしたが、ギリシア圏においてはデロス同盟を利用した「アテネ帝国」であった、と言われています。その理由は、アテネがデロス同盟を私物化し、その強大な軍事力を背景にギリシャの覇者となったためです。前454年、アケメネス朝の艦隊が再びエーゲ海付近に出没しはじめると、ペリクレスはデロス同盟の本部である財務局を、デロス島からアテネに移してしまいます。これを機に、アテネ帝国化はさらに加速しました。デロス同盟は諸ポリス間の対等な同盟ではなく、アテネが主人であり他のポリスはアテネに従属する、という同盟に変わってしまったのです。歴史家はこのことを「アテネの帝国化」とか、この時期のアテネを「アテネ帝国」と呼んだりしています。(ただし、アテネ自体は民主政ポリスという政治体制を取り続けていました。)まず、デロス同盟の政策はアテネの独断で決められました。それぞれのポリスが1票ずつ持って投票で決める、というルールは忘れられました。年賦金も値上げされました。当初は総額460タラントでしたが、前425年にはほぼ1500タラントまで上昇しています。しかも、諸ポリスにとって我慢ならなかったのは、値上げされた年賦金の使い道が、アテネの神殿建築費用や、アテネ自身の軍資金として使われたことです。これでは、諸ポリスはアテネに上納金を払っているのと同然です。
当然、諸ポリスに不満が募っていきます。最も平和的な解決方法は、デロス同盟から脱退することでした。現代日本でも、ある会に所属している会員が、年会費はたくさん取られるのに自分にはメリットが少ないと判断したら、その会を脱退するということは普通に行われていることです。しかしアテネは、自身が帝国として君臨するために、会員が離脱することを許しませんでした。「デロス同盟を脱退します」と言ったポリスには軍隊を送り込んで制圧し、デロス同盟脱退をしようとした政治指導者は処罰されたり追放されたりしました。この傾向はキモンが活躍していた頃から現れています。キモンは、脱退を表明したタソスを軍事力で屈服させ、アテネの従属国として再加入させています。
アテネ帝国の暴走はますますひどくなります。諸ポリスの治安維持と防衛という名目で、監督官と軍隊を置いたり、アテネの貨幣や度量衡を強制したり、アテネで行われる祭礼にお供え物を供出することを強制したり、土地の一部を取り上げたり、裁判権を行使するなど、その様子は強大な軍事力を背景に、他人を収奪することで自身に利益をもたらしている独裁専制国家のようなものでした。
また、デロス同盟に加盟しているポリスの中でも、富裕層と貧困層の対立が生じるようになりました。税金を支払わなければならない富裕層は、デロス同盟に資金を提供することを嫌がりましたが、金銭負担のない貧困層は、デロス同盟の維持を支持するようになりました。
このようなアテネ帝国の暴走に対し、コリントやボイオティア地方の諸ポリスは前460年から対アテネ戦争を開始。この戦争にはスパルタも反アテネで参戦しました。この戦いは15年間にわたって小競り合いが続き、いったん和平が結ばれます。しかし、それからまた15年ほどが経過すると、世界史に名を残した大イベント「ペロポネソス戦争」が勃発するのです。

アテネにおける子供教育
ここで、古代ギリシアのアテネで子供の教育がどのように行われたいたのかを紹介します。ただ、あくまでアテネに限った話ですので、同じことが他のポリスにも言えるのかどうかは不明です。このあたりは、今後の歴史研究成果や新たな史料の発見が待たれている分野でもあります。
まず、アテネの市民の子供たちは、6,7歳になるまでは女性と同じ部屋で生活していました。成人男性とは別の部屋だったそうです。現代日本に例えると、お父さんの部屋と、お母さんと子供たちの部屋に分かれていた、というところでしょうか。そして、男の子は学校へ通いましたが、女の子はそのまま家で過ごしていました。古代アテネでは、女子教育はほとんど行われていなかったのです。裕福な家庭の息子の場合、「ペダゴーゴス(教育者、の意)」と呼ばれる奴隷に付き添われて学校へ通ったそうです。
学校には教師がいるのですが、教師は特定の組織に属しているわけではなく、親から直接授業料を取っていたそうです。教育内容は、読み書きや計算、音楽や体育場で行う体育といった現代日本と似たような科目もありますが、ホメロスやヘシオドスの詩を暗記するなど古代ギリシアらしい文化的な科目もありました。
15歳になると「ギュムナシオン(体操場、訓練場の意)」に2年間に通い、軍役に備えて体を鍛えたり、哲学者と討論したりしたそうです。この課程を修了すると「エフィーボイ(青年市民、の意)」として、重装歩兵としての軍事訓練を施されますが、その間もギュムナシオンに通い続けるのが一般的だったそうです。

スパルタ
続いて、アテネのライバルと言えるスパルタの、極めて異彩を放つ特色について紹介しておきたいと思います。スパルタでは、極めて保守的な考え方で内政が行われていました。アテネのように商業が発展することもなく、農業が産業の柱であり続けました。紀元前6世紀に他のポリスで貨幣を導入した時も、スパルタは従来から存在した鉄の貨幣だけを認め、スパルタ市民が金貨や銀貨を持つことさえ禁じられました。金貨銀貨の保有が解禁されるのは、紀元前4世紀になってからです。植民活動もわずか1か所だけ(南イタリアのタラス)でした。
政治体制もかなり独特でした。まず、政府に該当するのは「エフォロイ」と呼ばれた5人の長老の会議でした。そして、戦争になると2人の世襲制の王が指揮を執りました。スパルタの国家としての最高機関は民会なので、この点は他のポリスと共通しています。ヘロドトスによると、紀元前5世紀初頭のスパルタ民会は5000人の市民で構成されていたそうです。これに対し、スパルタ人口の大部分は「ヘイロタイ(ヘロット)」と呼ばれる農奴でした。彼らはスパルタ市民が個々に保有する所有物というよりは、土地を(強制的に)耕作させらてる農作業者という扱いだったそうです。ヘイロタイ階級を構成していたのは、スパルタに征服されたポリスの人々や先住民の子孫でした。スパルタが征服地を広げるたびにヘイロタイの数は膨れ上がっていきました。その結果、少数のスパルタ市民が大量のヘイロタイを支配するといういびつな社会構造が作られました。そして、スパルタは常にヘイロタイの反乱を潜在リスクとして抱えていたのです。
そんな社会に生きたスパルタの市民は、精強なスパルタ軍団を構成する重装歩兵の一人として厳しい訓練が課せられました。現代にも伝わる「スパルタ教育」の語源はここにあります。スパルタ市民は、富や安楽には価値を見出さず、何よりも軍事訓練が重視されました。スパルタ市民の男は、基本的に共同生活を行っており、食事も共同で摂っていました。結婚したとしても、30歳になるまでは共同生活から離れることは許されませんでした。学問や文化・芸術なども軽視されていたため、スパルタが後世に残した文化は「子守」のみだ、と言われることもあります。

古代ギリシアにおける男性と女性
当時の古代ギリシアの大多数を占めていた男性の姿は、小さな農場の農夫でした。ギリシアでは、農業以外の生産活動は市民として相応しくない、という価値観が強かったため、商業やその他の産業は主にメトイコイ(外国人居住者)が担っていました。メトイコイの一部は、事業に成功してたいへんな大金持ちになった人もいたそうですが、アテネの場合、メトイコイが土地を所有することはできませんでした。その一方で、メトイコイにも軍役は課せられていました。
古代ギリシアでは、女性に市民権は与えられていませんでしたが、より詳細な法的権利などは不明な点が多いです。ただ、男性よりも権利が制限されていた事例として
1.アテネでは女性が財産を所有することも相続することもできない。
2.スパルタでは、女性も財産を所有し、相続することもできる。
3.アテネでは、女性が穀物1ブッシェル(約36リットル)以上の価値がある取引はできない。
が判明しています。
また、夫が妻を離縁するのは簡単でしたが、妻が夫を離縁するのは非常に難しいことでした。離婚の請求自体は可能なのですが、それは非常に稀なことであったようです。
普段の生活は単調で退屈なものだった、と考えられています。女性の行動について、社会的な制限がいろいろと強く、上流階級の女性の場合は、基本的に家の中で生活していました。たまに外出するとしても、必ずお供がいなければなりません。また、酒宴に参加できるのはヘタイラ(歌、踊りに加えて男性と知的な会話をすることができる教養を身に付けた女性)かポルネ(娼婦の意)だけでしたので、一般女性が酒宴に加わろうものなら、身持ちを疑われることになりました。このように、古代ギリシア世界の女性観は、後のローマの社会とは全く異なるものでした。
これは古代ギリシアに限った話ではありませんが、男性同士の同性愛がしばしば見られました。現代でも同性による恋愛や結婚について、各国で是非が議論されています。古代ギリシアの場合、上流階級の青年が年上の男性と恋愛関係になることが、社会的に容認されていました。そして、この同性愛はその後の女性との結婚の妨げになることもありませんでした。不思議なことに、同年代の男性同士、という組み合わせはかなり少ないようです。また、あくまで上流階級の人間だけの習慣だった、とも考えられており、前述のような一般的な古代ギリシア男性である「小さな農場の農夫」達がこぞって同性愛に陥る、ということではなかったと考えられています。そもそも、古代ギリシア世界では、自由身分の女性は家の中で隔離されているような状態であったため、男女の出会いがたいへん少なかったことが原因なのかもしれません。
古代ギリシアの男性の同性愛は、ヨーロッパ世界ではたびたび注目されているようですが、その原因の一つとして愛情表現がオープンだったことと、ギリシア文明が果たした役割があまりに大きかったため、と考えられます。

デロス同盟とアテネの帝国化 略年表            
前478年

デロス同盟結成
前470年頃

テミストクレスが陶片追放され、さらにアケメネス朝に逃亡
前466頃年

キモンがエウリュメドン河口の戦いでフェニキア艦隊に大勝
前464年

スパルタで大地震発生 多数のヘロットら反乱を起こす
前462年

エフィアルテスがアテネの民主化を完成させる
前454年

デロス同盟の金庫(本部)がアテネに移される

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