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ペリクレス時代

ペリクレスは、古代ギリシア世界の中でも最も優れた政治家として記録されています。ペリクレスは前495年頃、民主派の名家に生まれました。前495年頃といえば、ペルシア戦争におけるマラトンの戦いの5年前です。ペリクレスは5歳頃の時にマラトンの戦いがあり、15歳頃の時にテルモピュレーの戦い、サラミスの海戦が起きています。父はクサンチッポス、母はアガリステといい、アガリステはクレイステネスの姪でした。クサンチッポスもアテネの民主派の政治家で前484年に陶片追放されていますが、クセルクセス1世の大遠征軍が侵入する直前の大赦によってアテネに帰国し、前479年ストラテゴスの1人に選出されました。サラミスの海戦以後の戦いであるミュカレの海戦やセストス攻略の際に活躍しています。
アテネは、ペリクレスが指導者となった時に民主政ポリスとして完成され、そしてデロス同盟を中核とした「アテネ帝国」としても最盛期を迎えました。後世の歴史家はこの時期を「ペリクレス時代」と呼んだりしますので、ここでも「ペリクレス時代」と呼ぶことにします。
民主政アテネにおいて、重要な政治機関が「民会(エクレシア)」「500人評議会(ブーレ)」「行政官」「民衆法廷(ディスカリア」です。それぞれの内容を見ていくと、以下のようになります。

民会(エクレシア)
全アテネ市民(市民権を持つ18歳以上の男子)で構成される集会で、少なくとも年に40回開催されていました。民会は重大な案件を決定する権利を持っていました。法令などについては、公開討論が行われた後、投票によって賛否が決められました。

500人評議会(ブーレ)
名前の通り、500人の市民で構成される議会です。議員は選挙ではなく、くじ引きで決められました。評議会の議員は30歳以上の市民で、たいていは市政に参加した経験を持っていました。10の部門(プリュタネイア)に分けられ、交代で1年任期の職務についていました。職務としては、法律の草案検討、民会が決定する議事の準備に加え、対外政策や行政も統括しました。

行政官
様々な政策や行政が確実に行われいることを監督していました。大きな権力を持たされていたため、候補者は評議会の厳しい質問を経て道徳心を試され、その中からくじ引きで選出されました。なかでも「将軍(ストラテゴス)」は、戦争か平和かの決定に参加したため、とりわけ重要な役職でした。再選回数に制限はなかったため、例えばペリクレスは前461年から30年間、ほぼ毎年ストラテゴスとなっております。

民衆法廷(ディスカリア)
裁判は陪審員が行うようになりました。陪審員の数は6000人おり、毎年30歳以上の候補の中からくじ引きで選ばれました。この法廷の役割は、民衆の権利を保護することです。陪審員にはわずかながら手当が支給されたため、貧しい人でも陪審員を務めることが可能となり、その結果、裁判に民衆の声が反映されるようになるわけです。これは、後の中世や近世のヨーロッパの王国とはまったく異なる裁判制度でした。

ほとんどの行政官の選出にはくじ引きが用いられた目的の一つは、特定の役職が血縁者によって世襲されることを防ぐことでした。ソロンの改革やクレイステネスの改革により、アテネの政治は貴族の系譜を受け継いだ人達から、一般庶民のものへと徐々に変化していきました。そして、ペリクレス時代にアテネの民主政は最盛期を迎えました。紀元前という古代の時代に、これほどの民主政を実現したアテネの歴史は、特筆すべき事実だといえます。多くの場合、そして古代ギリシア以降の時代において、これほどの民主政レベルまで達したという歴史は、他のどの国でもなかなか見当たりません。多くの場合、国の政治とは、強大な君主とそれに連なる貴族など一部の人間のものであり、庶民のものではないのです。
もちろん、アテネの民主政にも不完全な部分はありました。上記の機関に参加できるのは男性のみで、女性は除外されていたことが、現代民主政との大きな違いの一つです。他には、毎年40回ほど開催された民会への市民の出席率は8分の1程度であったことが挙げられます。アテネ市民といっても、全員が市内中心部に住んでいるわけではなく、郊外の農村エリアなどに住んでいる市民もいました。彼らにとって、自分の仕事を放置して40日も民会に参加することは、現実的に厳しかったのでしょう。陪審員に手当が支給された理由の一つは、多数の市民の参加を促すためだったと考えられます。

ペリクレス時代の主な内政政策
アテネ民主政を完成させた、と評価されているペリクレスの主な政策は、以下の4つになります。
1.アルコン就任資格を拡大(前458or457年)
2.貧民へ観劇料を支給
3.下級役人へ日当を支給
4.アテネ市民権は、両親共にアテネ市民であることを要件とした市民権法成立(前451年)

1〜3までは、アテネの中でも低階層市民のための政策でした。1番について、アルコン(指導者、支配者)の資格は、時代と共にだんだん拡大されていきました。当初は名門貴族のみでしたが、ソロンの改革では最も富裕な階級に解放され、前487(or486)年には2番目の騎士階級に広げられ、選出方法もくじ引きとなりました。ペリクレスはこれをさらに拡大し、3番目の農民階級(ゼウギタイ)にまで広げられました。農民階級は、一般の重装歩兵たちの階級です。つまり、一重装歩兵であっても、アルコンに就任する可能性が生れた、ということになります。その一方で、範囲が広がりすぎたアルコンの重要性は時代と共に薄れていきました。2番と3番はまさに貧民対策ですが、現代日本の弱者救済対策とはまったく異なるところが、歴史を感じさせるところでしょうか。現代日本では生活保護が支給されますが、当時のアテネでは観劇料が支給されました。それだけ、アテネ市民の娯楽として演劇が重要だったことがうかがえます。また、下級役人への日当支給ですが、当時のアテネの役人の仕事は無給だったそうです。現代日本で、公務員が無給で働くなんてことはありえません。そもそも、アテネの役人といっても、現代日本の公務員とは異なり、それがその人の専門職というわけではなく、本職は別に持っていて、ある意味持ち回りの順番で国の仕事をしていました。それが、ポリスに生きる市民の「権利」であり「義務」でもあるわけです。ただ、下級役人については、もともと本職の収入に余裕があるわけでもないのに、無償で国の仕事をさせられては生活が苦しくなる、ということで日当が支払われるようになったそうです。
4番の市民権法については、政策の効果よりもペリクレス自身の身に起きた皮肉なエピソードが有名になっています。ペリクレスはアテネの女性と結婚し子供も生まれましたが、その子供を亡くし、その後妻とも離婚しました。その後、ミレトス出身の女性アスパシア(生没年不詳)と前445年頃から愛人として同棲を始め、二人の間に男の子(小ペリクレス、と呼ばれている)が生れました。しかし、小ペリクレスにはアテネ市民権は与えられません。ペリクレス自身が立てた市民権法は、両親がアテネ市民でなければ、アテネ市民権は与えられないのです。そこで、ペリクレスは自身が作った法律の例外を認めてもらうために、民会で小ペリクレスに市民権を与えることを懇願した、という話があります。(懇願の結果、小ペリクレスには市民権が与えられたそうです。)

ギリシア悲劇
貧民対策として、観劇料が支給されたという話が出てきたように、ペリクレス時代に最盛期を迎えたのが「ギリシア悲劇」です。ギリシア悲劇は古代ギリシア文化の代表的な存在です。悲劇作家として代表的なのが、ペルシア戦争に重装歩兵として参戦していたアイスキュロスです。アイスキュロスは若い頃から劇作家として演劇競技に出場しており、前484年に初優勝を果たして以来、13回優勝するという栄誉を手にしています。彼の作品はおよそ80篇とも90篇とも言われていますが、残念なことにその中で現存しているのは7篇といくつかの断片だけです。
ギリシア悲劇三大詩人の一人に数えられるアイスキュロスは悲劇作家の先駆けとして活躍し、前456年、シチリアのゲラにて死去しました。享年69歳前後。

アイスキュロスの主な作品と上演年            
上演年作品名
前472年ペルシア人
前467年テバイを攻める七将
前463年救いを求める女たち
前460年頃縛られたプロメテウス
前458年オレステイア
その他アガメムノン 供養する女たち 慈愛の女神たち

もう一人のギリシア悲劇三大詩人の一人・ソフォクレス(Sophokles)は前496年(495年とも)アテネ郊外のコロノスにて富裕な家庭に生まれました。ソフォクレスは前468年(28歳前後)の競演で先輩であるアイスキュロスを破って優勝して作家としての名声を得ました。それから精力的に123篇を作り、競演で優勝した数は18〜24回にもなるそうです。ソフォクレスは、それまでの劇の形式を積極的に変化させていきました。まず、俳優を2人から3人に増やし、合唱隊を12人から15人に増員。背景に絵を使い、それまで一般的だった3部作構成をやめて一話完結型とし、主役の性格と演技により重点を置くなどしています。
また、ソフォクレスは作家のみならず、ストラテゴス(将軍)に選出されるなど、アテネ政府の要職にたびたび就任していました。しかし、これも残念なことにそんなソフォクレスの作品で現存しているのは、アイスキュロスと同じく7篇といくつかの断片だけです。

ソフォクレスの主な作品と上演年            
上演年作品名
??アイアス
前442年頃アンチゴネ
前420年オイディプス王
??トラキニアイ
前418年エレクトラ
前401年コロノスのオイディプス (遺作)

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