ペリクレス時代の主な対外政策
デロス同盟を率いたキモンの活躍により、アケメネス朝ペルシアの脅威は大きく減退していましたが、それからしばらくすると、アケメネス朝の艦隊がしばしばエーゲ海に姿を現すようになりました。ペルシア戦争は事実上終結していましたが、ギリシアとアケメネス朝ペルシアの間で講和が結ばれたわけではなく、このような軍事行動はしばしば発生していたようです。
前454年、エジプトで発生した反アケメネス朝派が反乱を起こすと、アテネはこれを支援するために援軍を送るという積極策も取りましたが、失敗に終わりました。そこで、ペリクレスは陶片追放されたキモンを再度起用することを考えます。同じく前454年、ペリクレスはキモンの陶片追放を解くと、艦隊の司令官に任命してアケメネス朝艦隊の排除を行わせました。キモンは艦隊による遠征の指揮官となりましたが、前449年、キプロス島攻略作戦中に死去しました(享年63歳?)。ここでアケメネス朝との争いを手打ちにするため、ペリクレスはキモンの縁者であるカリアスを使者として送り、アケメネス朝と講和を結びました。講和により、アケメネス朝はイオニア方面のギリシア人植民都市の自治を認め、エーゲ海にペルシアの艦隊が入れない(エーゲ海はアテネの領海である、ということ)ことなどギリシア側に有利な内容で結ばれました。実質的には、前479年にペルシア戦争は決着がついていますが、形式上はこの講和でペルシア戦争が終了ということになります。この講和は「カリアスの平和」と呼ばれています。
アケメネス朝との講和が成立すると、デロス同盟は本来の存在意義を失いました。そして、その代わりにアテネによる帝国主義の道具に成り下がったのです。ペリクレスは平和を祝うかのように、前447年からパルテノン神殿をはじめとする、様々な建築事業をスタートさせました。それ自体は決して問題のある政策ではなかったと思いますが、問題だったのは、その建築資金にデロス同盟のお金を使ったことです。デロス同盟参加のポリスの不満が強まったことは容易に想像できます。
また、ギリシア内においては、前464年のヘロットの乱からおかしくなっていたスパルタとの関係修復にとりかかり、前446年(445年とも)にスパルタとスパルタと同盟しているポリスと30年間の不可侵条約を締結しました。
地上のゼウス
アケメネス朝、スパルタといった主要勢力との間に平和が確立されると、アテネを脅かすものはいなくなりました。アテネ内で、ペリクレスと対等に渡り合える人物はほとんどいませんでした。一人、トゥキディデス(Thoukydides ツキジデスとも表記。この人の名前はカタカナで書くのが難しいです 生没年不詳)という人物がいました。トゥキディデスは、歴史家として有名なトゥキディデスの祖父にあたると考えられています。このトゥキディデスは、ペリクレスがデロス同盟の資金を神殿建築に流用した件を材料にしてペリクレスを攻撃しました。彼の攻撃は至極当然のように思えましたが、ペリクレスは前444年(443年とも)、ペリクレスはトゥキディデスを陶片追放してこの問題を片づけています。
それ以降、ペリクレスは毎年ストラテゴスに選出され、事実上のアテネの支配者となりました。そんなペリクレスを、当時の人は尊敬と畏怖の気持ちを込めて「地上のゼウス」(ゼウスは、ギリシア神話の中の神々の王)と呼んだそうです。前438年にはパルテノン神殿も完成し、アテネは最盛期を迎えました。
しかし、そのような全盛時代は長くは続きませんでした。前435年、エピダムノスというギリシア北西部のアドリア海方面の植民都市で内乱が起りました。
エピダムノスは、現在はアルバニアの都市・ドゥラスとなっている。ギリシア人の植民都市は地中海の沿岸部各地に建設されたため、ギリシア人植民都市を起源とする都市は多い。 |
エピダムノスは、有力ポリスであるコリントとコルキラ(ケルキュラ、とも表記)が共同で開発した植民都市だったのですが、コリント派とコルキラ派が内部で対立しており、ついに戦争に突入してしまいました。そして、コルキラ派はアテネに援軍を求めます。エピダムノスを拠点に、アドリア海沿岸へ勢力拡大を図れると考えたアテネはコルキラ支援を決定し、これがきっかけとなって、アテネとコリントの間で戦端が開かれました。前433年には、アテネ艦隊とコリント艦隊が激突しました。前432年、以前からアテネとは仲の良くないポリスの一つ・メガラがコリントを支援し始めるとアテネは怒り、報復としてメガラの商人をデロス同盟の市場から締め出すという、経済封鎖を行いました。
この年の夏、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の会議の席で、重要な決議が行われました。アテネは、全ギリシアの自治独立の精神を脅かすまでに強大な勢力となっており、これ以上放置はできないと判断したスパルタが、アテネに宣戦布告することを決議しました。30年間の不可侵条約などは、どこかに飛んで行ってしまったのでしょう。戦争の準備が始まりました。翌年の前431年、古代ギリシア史最後のビッグイベントともいえるペロポネソス戦争の火ぶたが切って落とされます。
ペリクレス時代 略年表
前458 or457年 | |
アルコン就任資格が農民級にも拡大 | |
前454年 | |
デロス同盟の金庫をアテネに移す | |
キモンが陶片追放を解かれ、アテネに復帰 | |
前451年 | |
アテネ市民権法成立 | |
前449年 | |
キモンがキプロス包囲中に死去 | |
前448年 | |
カリアスの平和 | |
前447年 | |
パルテノン神殿など、各種建築事業をはじめる | |
前446 or445年 | |
スパルタと30年間不可侵条約を締結 | |
前444 or443年 | |
ツキジデスを陶片追放。以後、毎年ストラテゴスに就任 | |
前438年 | |
パルテノン神殿完成 | |
前435年 | |
エピダムノスの内乱をきっかけに、アテネとコリントの戦争が始まる | |
前432年 | |
コリントを支援したメガラに対し、メガラ商人をデロス同盟の市場から締め出す | |