big5
「今回のテーマは生き残ったビザンツ帝国です。まず、歴史初心者がよくつまずく基本的なポイントを確認します。
<重要歴史用語>
ビザンツ帝国=東ローマ帝国
です。」
名もなきOL
「東ローマ帝国のことを、ビザンツ帝国と呼ぶんですね。でも、なんで名前が変わったんですか?皇帝が国名変更したんですか?」
big5
「いえ、皇帝が国名変更したわけではありません。ビザンツ帝国という名前は、後の時代になって歴史学者が付けた名前なんです。なぜかというと、東ローマ帝国は1453年まで生きながらえた大変なご長寿国家なのですが、ゲルマン人の大移動以後、首都をコンスタンティノープルに置き、領土はギリシアとアナトリア半島を中心としたギリシア文化圏の国として存続した、という経緯があります。公用語も途中からギリシア語に変わったため、確かに東ローマ帝国ではあるのですが、元々のローマ帝国とは全く異なる性格の国になったんです。そこで、歴史学者らが「ビザンツ帝国」というあだ名をつけて、それが歴史用語として根付いたんですね。ちなみに、「ビザンツ」は、コンスタンティノープルの旧名:ビザンティウムに由来しています。
さて、それではいつもどおり、まずは年表から見ていきましょうか。」
年月 | ビザンツ帝国のイベント | 他地方のイベント |
527年 | ユスティニアヌスが皇帝に即位(在位:527~565年) | |
529~534年 | ローマ法大全 編纂 | |
534年 | 将軍ベリサリウスがヴァンダル王国を滅ぼす | |
537年 | 聖ソフィア大聖堂 完成 | |
555年 | 東ゴート王国を滅ぼす | |
568年 | イタリア半島でランゴバルド王国が反乱独立 | |
610年 | ヘラクレイオス1世が皇帝に即位(在位:610〜641年) | |
627年 | ニネヴェの戦いでササン朝ペルシアを降す | |
636~642年 | イスラム軍がシリア・エジプト方面を奪う | |
651年 | ササン朝ペルシア滅亡 | |
661年 | ムアーウィヤがカリフとなる(ウマイヤ朝の始まり) | |
711年 | イスラム軍がイベリア半島に攻め込み、西ゴート王国を滅ぼす | |
717年 | レオン3世が皇帝に即位(在位:717~741年) ウマイヤ朝の遠征軍がコンスタンティノープル包囲するが撃退 |
|
726年 | 聖像禁止令(~843年まで) | |
732年 | トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍がフランク王国に敗退 | |
big5
「ゲルマン民族の大移動は、ビザンツ帝国にも少なくないダメージを与えましたが、西ローマ帝国が476年に滅亡したのに対し、ビザンツ帝国はなんとか持ちこたえました。その後、ゲルマン民族大移動がひと段落した後、527年に皇帝に即位したユスティニアヌス(この年44歳)の治世で、失われた旧ローマ帝国の領土の半分くらいを回復しています。↓の図は、ビザンツ帝国の領土変遷を示した地図です。」
名もなきOL
「そうですね、550年の時にイタリア半島、北アフリカを領土にしていますね。ユスティニアヌスさん、凄いですね!」
big5
「ユスティニアヌスは、この実績をもってユスティニアヌス大帝と呼ばれることもあります。ただ、この領土回復の戦いで現場指揮を執ったのは、ユスティニアヌス本人ではなく、部下の将軍である名将・ベリサリウスです。ベリサリウスについては、センター試験の範囲を超えているのでここでは割愛しますが、いずれ詳細篇などで紹介したいと思います。
ともあれ、ユスティニアヌスの治世において、534年にヴァンダル王国を滅ぼし、555年に東ゴート王国を滅ぼした、という2点は重要ポイントですね。
<重要ポイント>
ユスティニアヌスの時代に、ビザンツ帝国はヴァンダル王国、東ゴート王国を滅ぼし、旧ローマ帝国領の半分くらいを奪還した。」
名もなきOL
「あれ、でも「一時的」ということは、長続きはしなかった、ということですよね?」
big5
「はい、ユスティニアヌス時代に奪還した領土を長く維持することはできませんでした。568年にはイタリア半島でランゴバルド王国が反乱して独立するなどし、長続きはしなかったんです。
さて、ユスティニアヌス時代には、領土面以外にも重要ポイントがあります。それは、ローマ法大全の編纂と、首都・コンスタンティノープルの聖ソフィア大聖堂です。
<重要ポイント>
ユスティニアヌスの時代に、「ローマ法大全」と「聖ソフィア大聖堂」が作られた。
」
名もなきOL
「ローマ法大全って、名前からするとローマの法律を全部まとめた書物ですか?」
big5
「そうです。ユスティニアヌスは自ら法律を学び、皇帝即位から半年後から新法典編纂事業の命令を出しました。歴代皇帝が出した勅令をまとめ、これまでの重要な法律について法学者の解釈や学説をまとめたものなど、「大全」の名に恥じない、ローマ法をまとめた大作です。ちなみに、近代フランスの英雄・ナポレオンは若い頃からローマ法大全を読み込み、皇帝になった後に発布したナポレオン法典には、ローマ法の要素が盛り込まれています(参考:自由と革命の時代 ナポレオン時代)。それくらい、ローマ法大全は有用なものだったわけですね。
そしてもう一つ、ビザンツ文化の代表建築の一つである「聖ソフィア大聖堂」も、ユスティニアヌスが建造(正確には再建)しました。こちらは、世界遺産にも登録されていますので、国際的に有名な観光地の一つですね。」
名もなきOL
「これ、観光パンフレットで見たことあります。イスタンブールの観光名所の一つですよね。でも、どの辺がビザンツ文化の建築様式なんですか?」
big5
「見た目にわかりやすいのは、中央の建物の屋根が半球形になっていることですね。円蓋(えんがい)、といいます。↑の写真は現代に撮影されたもので、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が周囲に4本の塔を建ててイスラム教モスクに変えてしまったのですが、それ以外は当時の形を保っているそうです。」
big5
「ヘラクレイオス1世の時代から時が流れた717年、シリア方面の軍管区の長官だったレオン3世(この年32歳くらい)が皇帝に即位しました。ちなみに「レオン」とは獅子、つまりライオンのことで、本名ではなく異名です。イスラム教徒と勇猛果敢に戦う姿が称えられ、即位後は異名を皇帝の名前として用いました。実際、この年にウマイヤ朝が送り込んだ遠征軍が首都・コンスタンティノープルを包囲したのですが、レオン3世自ら指揮を執って戦い、防衛に成功しています。」
名もなきOL
「この頃のビザンツ帝国で有名になった皇帝は、3人とも軍事面での功績が大きいんですね。そういう時代だった、ということですね。」
big5
「そんなレオン3世でしたが、彼を有名にしたのは軍事面での功績ではなく、726年に発した聖像禁止令です。聖像とは、神やイエス、あるいは聖母マリアなどを描いた像や絵のことです。元々、キリスト教の十戒にあるように、偶像崇拝を禁止していました。ところが、侵入してきた異民族であるゲルマン人に布教するために、像や絵を使って布教する、という方法が取られていました。ビザンツ帝国内でも、イコンという絵画が教会に飾られたりするなど、偶像崇拝にあたりそうな行為が当然のように行われていました。そんな中、偶像崇拝を徹底して禁止するイスラム教が勢力を広げます。敬虔なイスラム教徒の目から見れば、禁止されているはずの偶像崇拝をしているキリスト教徒は退廃した民族のように映ったことでしょう。ビザンツ帝国内にも、キリスト教に疑問を持ち始め、宗教的にはイスラム教徒に同調し始める者も出てきました。レオン3世は、宗教的な面からの統制を強めるために、聖像禁止令を出しました。ビザンツ文化であるイコンもその対象となり、あちこちで聖像破壊運動が行われました。」
名もなきOL
「う〜〜ん、こういう話があるから、宗教って難しいですよね。私は、偶像崇拝がそんなに問題のあることだとは思わないので、それを禁止するなんて「そこまでしなくてもいい」って思いますけど、元々の教義にしっかり基づけばやっぱり禁止が正しいんでしょうね。」
big5
「私も同意見です。ただ、この聖像禁止令にはもう一つ、現実的な狙いがあったのではないか、と言われています。それは、聖像禁止令を守らない教会の土地・財産没収です。キリスト教圏では、たびたびこのような教会に対する取り締まり強化政策が取られていますが(例:広がる世界・変わる世界 イギリスの宗教改革)、処罰された教会・修道院は土地財産を没収され、それが国の財政問題解決に一役買っています。おそらく、レオン3世は国家財政を潤すことも念頭にしていたのであろう、と考えても変ではないですね。」
名もなきOL
「政治って、そういう背景が絶対にありますよね。私も「裏の狙いは教会財産の没収」説は正しいんじゃないか、と思います。」
big5
「ただ、ここで誤解しやすいポイントがあるので説明しておきます。聖像禁止令は、特にローマ・カトリック教会から猛烈な反発を受け、論争も起きて両者の仲は険悪になりましたが、聖像禁止令は約100年後の843年に廃止されましたので、東西教会分裂の直接原因ではない、ということです。決定的な東西教会分裂は1054年のことなので、もう少し後の時代の話になります。
<重要ポイント>
聖像禁止令(726年)は約100年で廃止。教会の東西分裂はもう少し後
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、「生き残ったビザンツ帝国」で扱ったネタはよく出題されています。試験前に復習しておくのがおススメです。」
平成30年度 世界史B 問題2 選択肢A
・(『ローマの平和』の時代に)『ローマ法大全』が編纂された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ユスティニアヌス帝が『ローマ法大全』を編纂したので、「ローマの平和(パクス・ロマーナ)の時代ではありません。
平成31年度 世界史B 問題24 選択肢B
・(オスマン帝国では)軍管区制(テマ制)で、軍人に土地からの徴税権が与えられた。〇か×か?
(答)×。上記の通り、軍管区制(テマ制)はヘラクレイオス1世の時代に制定されています。オスマン帝国の制度ではありません。
平成31年度 世界史B 問題33 選択肢B
・レオン3世が、聖像禁止令(聖像崇拝禁止令)を発布した。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、レオン3世は聖像禁止令を出しました。
令和2年度 世界史B 問題12 選択肢B
・ビザンツ帝国で、公用語としてアラビア語が採用された。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ヘラクレイオス1世の治世でギリシア語が公用語となりました。アラビア語ではありません。
令和2年度 世界史B 問題27 選択肢@
・ユスティニアヌスの『ローマ法大全』は、5世紀に編纂された。〇か×か?
(答)×。やや細かい問題。ユスティニアヌスは6世紀(501~600年)に活躍した人なので、5世紀ではありません。
令和5年度 世界史B 問題21 選択肢@&B
(問題)貨幣1を発行した王朝について述べた文として、適当なものを選べ。
貨幣1の情報:7世紀前半に発行国の首都であるコンスタンティノープルで造られた金貨。ソリドゥスと呼ばれる形式の貨幣、品質が高いことで知られていた。表の面には、発行当時の皇帝とその共同統治者が描かれ、裏面には、中央に十字架、周縁に皇帝の礼賛文が書かれている。
@貨幣1の発行国では、ゾロアスター教が国教とされた。
B貨幣1の発行国では、ローマ法の集大成が行われた。
(答)B。問題文が長く難しく感じるものの、実はそんなに難しくない問題。まず、貨幣1の発行国がどこなのか推定する必要がありますが、「首都:コンスタンティノープル」という文言で「ビザンツ帝国」と考えられればOK。ビザンツ帝国の国教は当然キリスト教なので@は×。Bはビザンツ帝国のユスティニアヌス帝の重要な事績の一つで、センター試験ではこれまでもしばしば出題されているネタなので、知っておかなければならないです。Bが正しく、正解になります。ソリドゥス金貨の件は、知らなくても問題には答えられます。
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