big5
「今回のテーマはピューリタン革命です。イギリスの歴史です。イギリス史として見ると、こちら↓の続きになります。
エリザベス1世の治世
ピューリタン革命は「革命」と名付けられているとおり、イギリスで勃発した革命で、国王のチャールズ1世が処刑されて、イギリスが共和制国家へと大変化した出来事です。」
名もなきOL
「ピューリタン革命って、そんなに大きなイベントだったんですね。確か、中学校で「清教徒革命」って習った記憶がありますけど、同じ話なんですよね?」
big5
「同じです。ピューリタン(puritan)の日本語訳が「清教徒」なので、全部日本語で書けば清教徒革命となります。ところで、ピューリタンってどういう人々だったか覚えていますか?」
名もなきOL
「えぇっと・・・確かカルヴァン派の人々でしたっけ?」
big5
「正解。よく思い出しましたね。こちら↓
カルヴァンの宗教改革
でも説明したように、スイスのカルヴァンの教えはヨーロッパの商工業者に広まっていき、大きな勢力となりました。イギリスではカルヴァン派を信仰する人々はピューリタンと呼ばれ、ピューリタンらが国王とイギリス国教会の支配体制を武力でひっくり返したのがピューリタン革命なんです。
ピューリタン革命の重要ポイントは以下になります。
・エリザベス1世の後継者、ジェームズ1世は王権神授説を唱え、議会としばしば対立した。
・ジェームズ1世の息子のチャールズ1世は、さらに輪をかけて議会と対立。ついに国王と議会の間で戦争になる(ピューリタン革命の始まり)。
・戦争は議会が勝利。議会の中でも、クロムウェルらのピューリタンで構成される独立派がリーダーとなり、チャールズ1世を処刑して共和制が始まった。
と、なります。まずはいつも通り年表から見ていきましょう。」
年月 | イギリスのイベント | その他のイベント |
1603年 | ジェームズ1世即位 ステュアート朝始まる | |
1607年 | ヴァージニア植民再開 | |
1618年 | (独)ドイツ三十年戦争 開戦 | |
1620年 | ピルグリム・ファーザーズのニューイングランド植民開始 | |
1625年 | チャールズ1世即位 | |
1628年 | 議会が権利の請願を提出 | |
1629年 | チャールズ1世が議会を解散させる(無議会時代 ~1640年) | |
1639年 | チャールズ1世の宗教政策にスコットランドが反乱 | |
1640年 | 4月 チャールズ1世が議会を召集(短期議会) | |
1640年 | 5月 チャールズ1世が議会を解散させる | |
1640年 | 11月 チャールズ1世が再び議会を召集(長期議会) | |
1641年 | 議会の大抗議文(議会の大諫奏) | |
1642年 | ピューリタン革命 始まる | |
1643年 | クロムウェルが鉄騎隊を編成 | (仏)ルイ13世死去 ルイ14世即位 |
1645年 | ネーズビーの戦いで議会は軍が王党派軍が大勝 | |
1647年 | 議会で長老派、独立派、水平派の対立が深まる | |
1648年 | クロムウェルが長老派議員を議会から追放 | ウェストファリア条約締結 |
1649年 | 議会がチャールズ1世を処刑 | |
big5
「さて、まずはエリザベス1世の死後、跡を継いでイングランド王となったジェームズ1世について見ていきましょう。」
big5
「ジェームズ1世は1566年生まれ。母はイングランドに亡命したもののエリザベス1世に処刑されたメアリ・ステュアートです。この辺の事情は前回の↓をご覧下さい。
エリザベス1世の治世
母のメアリ・ステュアートがイングランドに亡命してしまったので、息子のジェームズ1世はわずか1歳でスコットランド王に即位。そして、テューダー朝に後継者がいなかったエリザベス1世は後継者にジェームズ1世を指名したので、1603年にイングランド王も兼ねることになりました。この時、ジェームズ1世は37歳になる年です。」
名もなきOL
「イングランドとスコットランドは同じ王様になったんですね。ということは、このタイミングでイングランドとスコットランドが合併したんですか?」
big5
「いえ、イングランドとスコットランドの合併は100年くらい後の話です。この時点ではまだ「同君連合」ですね。ジェームズ1世はイングランドとスコットランド、さらにはアイルランドの合併を考えたようなのですが、宗教の壁が立ちはだかったできなかったみたいです。何しろこの3国で主流となっていた宗教は
イングランド:イギリス国教会 スコットランド:長老派(カルヴァン派) アイルランド:カトリック
なので、まとめるのは至難の業だったと思います。
ともあれ、こうしてジェームズ1世はイングランド王となり、テューダー朝は断絶、代わってステュアート朝がイギリス王家となったわけですね。そんなジェームズ1世について覚えておくべきポイントは王権神授説です。」
名もなきOL
「王権神授説って・・・「王の権利は神が授けた」ってことですか?」
big5
「そのとおりです。神が授けたものなので、王ではない貴族や庶民が王のやることにたいしてとやかく言うことは、神の意思に反する、というわけですね。ジェームズ1世は学識が高い人だったので、自ら論文も書いています。
そのような思想の持主だったので、歴史あるイングランド議会とはたびたび揉め事が発生しました。それでも、大陸がドイツ三十年戦争で戦乱の嵐が吹き荒れる中、イギリスは比較的平穏に過ごしていました。この頃の他のイベントとしては、北米植民地の開拓があります。1607年には、ウォルター・ーローリーが着手して失敗したままになっていたヴァージニア植民が再開されて根付くようになりました。また、1620年にはイギリス国教会に迫害されたピューリタンの一部であるピルグリム・ファーザーズがニューイングランドの開拓を始めています。」
名もなきOL
「ピルグリム・ファーザーズってピューリタンの一団だったんですね。」
big5
「そうですね、イングランドでは引き続きイギリス国教会が権力を握っていましたので、それ以外の宗教は弾圧されていました。これも、ピューリタン革命の一因です。国王と結びついているイギリス国教会に対する反発が、革命の原動力の一つだったんです。
そんなこんなで時は過ぎ、ジェームズ1世は1625年に死去。後継者は、息子のチャールズ1世となりました。」
big5
「さて、チャールズ1世は1625年に父・ジェームズ1世と同じくイングランド、スコットランド、アイルランドの王となりました。この年25歳です。」
big5
「チャールズ1世の政治姿勢は、父・ジェームズ1世と同様に王権神授説でした。いや、それよりも議会を軽く扱う面では父以上だったと思います。チャールズ1世はドイツ三十年戦争に便乗してフランスなどを攻撃するために戦争を計画しましたが、戦争には金が必要です。そこで、議会の話も聞かずに税を徴収し、反対する人々は逮捕するという強硬策に出ました。」
名もなきOL
「あ、この流れはマズイですね・・・」
big5
「このようなチャールズ1世に対し、議会はエドワード・コークらが中心となって1628年、権利の請願を策定して提出しました。権利の請願の主だった内容は
@国王といえども勝手に税金を徴収しないでください。議会の同意を得てください。
A国王に反対したというだけで人を逮捕するのはやめてください。
というものでした。」
名もなきOL
「至極当然の内容ですよね。でも、当時はそれが当然ではなかったんですね。」
big5
「はい、そうなんです。チャールズ1世は権利の請願を承認したものの、彼の行動は変わりませんでした。どころか、年が明けた1629年には議会を解散させてしまいます。それ以降、1640年まで議会は召集されることはありませんでした。なので、この期間は無議会時代と呼ばれます。」
big5
「口うるさい議会を解散させ、自分と側近で政治を行ってきたチャールズ1世ですが失敗が多く、1637年にはステュアート朝の故郷であるスコットランドで反乱が起きてしまいます。理由は、長老派(カルヴァン派)が多数を占めるスコットランドでイギリス国教会風の戴冠式を行い、さらにはイギリス国教会の儀式を強制させる、などというものです。」
名もなきOL
「チャールズ1世って、ある意味では「我が道を行く」タイプだったんでしょうね。これではスコットランドが反発するのも仕方ないですね。」
big5
「チャールズ1世は鎮圧軍を送りましたが、なんと敗北。これでは示しがつかないので、再度鎮圧軍を贈ろうとしますが、今度はお金が足りません。臨時税金を徴収しましょう、ということで1640年、約11年ぶりに議会が召集されました。議員たちは久々の議会に喜んだことでしょう。ところが議題は、スコットランド遠征軍のための臨時徴税ですから、たちまち反対意見が続出。怒ったチャールズ1世は翌月には議会を解散させました。実質的に1か月しか開かれなかったこの短い議会を短期議会といいます。」
名もなきOL
「え〜っと、議会を召集したところで、臨時徴税が認められる、と本気で思ったんでしょうか?チャールズ1世は。目に見えた結果ですよね。でも、議会を無視して臨時徴税を強行しなかったのは、権利の請願に沿っていますね。」
big5
「議会を解散させたチャールズ1世ですが、これでは軍を編成できません。そんなチャールズ1世に対し、スコットランド軍は進撃してきたため、チャールズ1世はやむを得ず講和。しかし、多額の賠償金を支払う約束をさせられてしまいました。しかし、金がありません。やはり臨時徴税が必要。そこで、議会を再招集して課税を認めてもらおうとしました。こうして開かれた議会は、ピューリタン革命が終わるまで長期間続いたので、前回の短期議会と比べて長期議会と呼ばれています。」
名もなきOL
「議会を開催して同意を得ようとするのはいいんですけど、議会は納得できないですよね。この話も無理筋のような・・・」
big5
「はい、OLさんが想像するような結果になりました。議会は国王の権力を削減する法案を次々と決定し、1641年11月には急進派の議員が中心となって議会の大抗議文(議会の大諫奏、とも)と呼ばれる、チャールズ1世の非難決議を行いました。これは議会で決議されたものの、賛成159票、反対148票と僅差でした。そこで、チャールズ1世は軍を率いて議会に乗り込み、急進派議員を逮捕しようとしましたが、このような国王の実力行使に対して議会は屈せず、急進派議員の身柄引き渡しも拒否。チャールズ1世もそれ以上踏み込めず、引き返していきました。どころか、国王の実力行使に対して議会は民兵を召集し始めたので、ロンドンにいることに不安を覚え、北のヨーク、ノッティンガム方面へ逃げ、ここで軍勢を召集しました。こうして、ついにチャールズ1世と議会の間で戦いとなります。ピューリタン革命の始まりです。」
big5
「国王軍と議会軍の戦いは、序盤は国王軍が優勢でした。というのも、国王軍の指揮官は戦の経験がある貴族であり、軍も騎士らで構成される騎兵が主力となっていました。これに対し議会軍は、指揮官はジェントリが務めましたが彼らの多くは素人で、軍の主力は本来自衛組織である民兵隊でした。」
名もなきOL
「これなら、国王軍が優勢になるのも当然ですよね。」
big5
「この状況を覆したのが、共和制イギリスのリーダーとなるクロムウェルです。」
big5
「クロムウェルは国王軍に対抗するために、熱心なピューリタンで騎兵隊を構成して主力としました。この部隊は鉄騎隊(Ironsides)と呼ばれています。信仰心に燃える鉄騎隊の士気は高く、以降の戦いは議会軍が優勢となりました。鉄騎隊の編成に続き、議会軍は自由農民で構成される部隊を主力とする新型軍(New Model)を編成しました。1645年のネーズビーの戦いでは議会軍が国王軍に大勝。チャールズ1世の命運は風前の灯火となった・・・かのように見えました。」
名もなきOL
「あら、ここに来て何かあったんですね?」
big5
「はい。勝利が見えてきた議会の内部で、戦後の政治体制をめぐって派閥抗争が生じていたんです。」
big5
「当初はチャールズ1世とイギリス国教会という共通の敵を持って一致団結していた議会でしたが、勝利が見えてくると今度は内部の不協和音が大きくなってきました。これも世の常ですね。議会の派閥は大きく分けて以下の3つです。
@長老派:スコットランドの長老派と連携して、イギリス国教会に対抗して長老主義の教会組織を広げることを主張。
A独立派:クロムウェルをリーダー格とする、自由農民のピューリタンらが中心。教会は聖職者のものではなく、独立した平信徒らによって運営されるべき、と主張。チャールズ1世とは徹底的に戦う。
B水平派:ロンドンの手工業者・職人らが中心。議会軍の兵士たちの利益を守るために、より平等な共和国建国を目指す。
これら3者が目指した国家の姿は、それぞれ異なるものでした。そのため、派閥間抗争が激しくなっていきました。一方、ほぼ敗北していた国王軍ですが、議会の内部分裂に付け込んで一部の残党が再び蜂起しました。これに対して、議会は派閥抗争を一時棚上げにし、蜂起した国王軍と再度戦ってこれを撃破。チャールズ1世も1648年の春に投降して捕虜となり、およそ6年にわたって続いた内戦は終結しました。」
big5
「さて、革命が成就し、議会による新しい国づくりが始まることになりました。まず、最初の懸案は国王・チャールズ1世の処遇です。これについては様々な意見が出たのですが、議会下院の決議で処刑と決まり、1649年1月、チャールズ1世は公開処刑(この年49歳)となりました。
また、議会の運営については再び派閥抗争が勃発。結果として、長老派は議会から追放され、水平派は弾圧されて力を失い、クロムウェルがリーダー格である独立派が主導権を握りました。ここから、共和政イギリスとしての歴史が幕を開けることになるのです。
と、言ったところで今回はここまで。ご清聴ありがとうございました。イギリス史の続きはこちらになります。
絶対主義国家と国王たちの戦い
共和政イギリス
次回もお楽しみに!」
名もなきOL
「今日もありがとうございました。」
big5
「大学入試共通テストでは、ピューリタン革命のネタはわりと出題されます。試験前に復習しておくのがおススメです。」
・平成30年度 世界史B 問題12 選択肢C
・劉永福は鉄騎隊を組織した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、鉄騎隊を組織したのはクロムウェルです。なお、劉永福は1884年の清仏戦争でフランス軍と戦った漢人で、彼が率いた軍は黒旗軍です。参考↓
しのぎを削る列強 滅びゆく清
・平成31年度 世界史B 問題3 選択肢A
17世紀、イギリスで起こった出来事として正しいものを選べ
・チャールズ1世が処刑された。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、1649年、ピューリタン革命の結果、チャールズ1世が処刑されています。
・平成31年度 世界史B 問題25 選択肢B
・ピルグリム・ファーザーズ(巡礼の父祖)と呼ばれるカトリック教徒の一団が、アメリカに渡った。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ピルグリム・ファーザーズはカトリックではなくピューリタンです。
・令和2年度追試 世界史B 問題33 選択肢C
・19世紀にクロムウェルが鉄騎隊を編成した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、クロムウェルが鉄騎隊を編成したのはピューリタン革命の時期なので、19世紀ではなく17世紀のことです。
・令和4年度追試 世界史B 問題8 選択肢C
・ラテンアメリカにピルグリム=ファーザーズが入植した。〇か×か?
(答)×。上記の通り、ピルグリム・ファーザーズが入植したのは北米のニューイングランドなので、ラテンアメリカ(南アメリカ)ではありません。
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