big5
「今回の主題は百年戦争です。まず始めに確認しておくべきことは、百年戦争は100年間ずっと戦争していたわけではない、ということです。一般的に、百年戦争の開戦は1339年、終結は1453年とされていますので、この期間は114年になります。また、この114年間絶え間なく戦争状態が続いたわけではなく、停戦していた期間や小康状態だった期間もあります。百年戦争は中世最後の大イベントですので、年号は暗記しておくのがおススメです。私はこのように覚えています。
いざ作(1339)戦を立てて臨む百年戦争
終結した1453年は、ビザンツ帝国滅亡と同年なので、ビザンツ帝国滅亡の語呂合わせ「一夜(14)でゴミ(53)山ビザンツ帝国」で覚えています。
まずはいつもどおり、年表から見ていきましょう。
| 年月 | 百年戦争のイベント | 他地域のイベント |
| 1339年 | 百年戦争 開戦 | |
| 1346年 | クレシーの戦い イングランド勝利 | |
| 1347年 | イングランドがカレーを占領 | |
| 1348年 | (欧州)黒死病(ペスト)大流行 | |
| 1356年 | ポワティエの戦い イングランド勝利 | |
| 1358年 | (仏)ジャックリーの乱 | |
| 1381年 | (英)ワット・タイラーの乱 | |
| 1392年 | (日)足利義満が南北朝を統一 | |
| 1396年 | (東欧)ニコポリスの戦い オスマン帝国がキリスト教徒連合軍を撃破 | |
| 1402年 | (中東)アンカラの戦い ティムールがオスマン帝国のバヤジット1世を破り捕縛 | |
| 1407年 | (仏)ブルゴーニュ派とオルレアン・アルマニャック派に分裂 | |
| 1415年 | アジャンクールの戦い イングランド勝利 | フスが火刑に処される |
| 1419年 | (チェコ)フス戦争 開戦 | |
| 1422年 | イングランドがヘンリ6世を英仏両国の王に推戴 | |
| 1428年 | イングランド軍オルレアン包囲 | |
| 1429年 | ジャンヌ・ダルクがオルレアン解放 | |
| 1431年 | ジャンヌ・ダルクが火刑に処される | |
| 1434年 | (チェコ)フス戦争 終結 | |
| 1435年 | シャルル7世 ブルゴーニュ派と和解 | |
| 1453年 | シャルル7世 がギエンヌ地方を占領 百年戦争終結 | (東欧)オスマン帝国のメフメト2世がビザンツ帝国を滅ぼす |
big5
「これまで見てきたようにフランスとイングランドは領土争いを繰り広げていたのですが(13世紀のイングランドと議会の始まり)、その背景に加えてフランス王フィリップ4世の息子たちがすべて短命で亡くなり、1328年にカペー朝が断絶。フィリップ4世の甥のヴァロワ伯フィリップがフィリップ6世がフランス王となった(ヴァロワ朝の始まり)ことが直接の引き金になりました。」
big5
「ところが、これに異議を唱えたのがイングランド王エドワード3世(1312-1377年)です。エドワード3世の母はフィリップ4世の娘イザベラなので、フィリップ4世の孫にあたります。」
big5
「もちろん、そんな主張をフィリップ6世が認めるわけがなく、両者は戦争となりました。イングランド軍はフランスに上陸して攻撃を開始しました。序盤の戦闘の中で特に有名なのが1346年のクレシーの戦い(Battle of Crecy)です。」
big5
「クレシーの戦いで活躍したのが、イングランドの主にヨーマンで構成されるロングボウ部隊です。この2つは歴史用語でもあるので、簡単に解説します。
ヨーマン(yeoman)は日本語では「独立自営農民」と訳されます。中世の農民の多くは、領主に服従する奴隷的な存在「農奴」でしたが、ヨーマンは領主に服従する必要がなく、自分で農業をやって生活できる階級の人々でした。中世も後半になると、三圃制の普及によって生産量が増大し、農民は余剰作物を市場で売ることで経済力をつけていき、やがて領主への賦役からも解放されるようになったのがヨーマンです。
ロングボウは日本語訳は「長弓」で、その名の通り長い弓です。上の絵の左側(イングランド側)の兵士が持っている弓がロングボウです。左側(フランス側)にいる兵士が持っているのがクロスボウです。クロスボウはバネの力を使って弦をひき、銃のように引き金を引いて発射する弓です。どちらも一長一短があり、どちらが優秀なのかは簡単には言えません。ですが、百年戦争ではイングランド軍がロングボウ隊を有効に活用し、フランスの騎士部隊を撃破していきました。
クレシーの戦いはイングランド軍の大勝利となり、翌年の1349年にはドーバー海峡近くの街・カレー(Calais)を占領しました。なお、カレーは近世のメアリ1世の治世でフランスに奪還されるまで、イギリスの最後の大陸側の領土となっています。
しかし、1348年にヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行し、人口の3分の1が失われると、さすがに両国ともにいったん休戦となりました。
なお、クレシーの戦いは軍事史でもたいへん重要な戦いとなっています。詳しくは以下の動画がとても参考になります。」
big5
「黒死病(ペスト)流行による一時休戦の後、イングランド軍は再び攻撃を始めました。この時、イングランド軍を率いたのがエドワード3世の息子であるエドワード黒太子(こくたいし Edward, the Black Prince 1330-1376年)です。まず目を引くのが「黒太子」(英語はthe Black Prince)という言葉でしょう。なぜ黒太子というあだ名が付けられたのかというと、黒い鎧を愛用していたから、とか敵のフランス側から残虐な行いに対して「黒(noir)」と呼んだから、とかいくつか説があります。エドワード3世の子なのにエドワード4世とならないのは、黒太子が父エドワード3世よりも先に亡くなったので王位は継いでいないからです。
さて、エドワード黒太子はたいへん優れた将軍で、彼が指揮を執った戦闘はほぼ
勝っています。中でも有名なのが、1356年のポワティエの戦い(Battle of Poitiers)です。ポワティエというと、中世前半の732年に起きたトゥール・ポワティエ間の戦いを連想しますが、このポワティエと同じポワティエです。トゥール・ポワティエ間の戦い(中世 イスラム勢力の誕生、中世 フランク王国の誕生と分裂)はポワティエの北ですが、1356年のポワティエの戦いは南で発生しています。
ポワティエの戦いは、イングランドが数的不利の状況でしたが、エドワード黒太子の巧みな指揮によってイングランド軍が大勝利。フランス軍は、国王ジャン2世(1319-1364年)はじめ、名だたる貴族が多数捕虜となるという大敗北を喫しています。なお、捕虜となったジャン2世には莫大な身代金が要求されたのですが、フランスはこれを支払うことができませんでした。そのため、ジャン2世は捕虜のままで亡くなっています。なお、捕虜といっても牢に入れられていたわけではなく、かなり手厚くもてなされていました。
ポワティエの戦いの詳細については、こちらの動画で詳しく説明されているので、興味がある方は是非一度見てみてください。」
big5
「ここまで見てきたように、百年戦争が始まってからポワティエの戦いまで、イングランドが優勢でした。戦場となったフランス国内は荒廃が進んだ上に、傭兵団が行く先々の村で略奪暴行を繰り返し、民衆を守るはずの貴族はさらなる戦費調達のために重税を課すなど、フランス民衆の生活は悲惨な状態になりました。ポワティエの戦いの2年後、フランス北東部の農民らがついに暴徒化し、領主の館を襲撃。貴族なら女子供でも容赦なく殺害するという暴挙に出てしまいます。この農民反乱はジャックリーの乱と呼ばれています。(ジャックリーという語は、農民に対する蔑称"jacques"に由来している、と言われています。)
暴徒化した農民らは数万に膨れ上がり、大きな脅威となったのですが、ナバラ王シャルルが反乱の頭目であったカルルという男を騙し討ちにすると、頭目を失った反乱軍は統率が取れずに瓦解。反撃に出た貴族らの軍は仕返しとばかりに反乱農民を殺害し、家々に火を放って回ったので、農村はさらに荒廃しました。まさに戦争の惨禍です。」
big5
「一方、イギリスでは1381年にワット・タイラーの乱(Wat Tyler's Rebellion,Great Uprising or Peasants' Revolt)が起きています。ジャックリーの乱と同じく、イングランドで発生した農民反乱なので、ジャックリーの乱と合わせて覚えておきましょう。ただ、ワット・タイラーの乱はキリスト教の異端であるロラード派との関係も強いため、「中世(後半)教会大分裂とフス戦争」の章で説明しています。」
big5
「さて、ここから大きく年代ジャンプしまして1400年代に飛びます。もちろん、ジャンプした間にも様々な事件や戦闘は生じているのですが、ここでは割愛します。
この時のフランス王はシャルル6世(1368-1422年)だったのですが、彼のあだ名は「狂気王(le Fol)」です。名前の由来は、精神錯乱に陥ってしまったからです。現代では、おそらく遺伝的な脳神経疾患だったのだろう、と予測されています。
具体的に、どのような症状を示していたかというと
@進軍途中で休憩をはさんだ際「裏切り者に突撃せよ」といきなり指示を出して自ら味方の騎士に斬りかかった。
A自分の家の紋章は、剣で貫かれたライオンだ、と主張した。
B宮廷の官吏は見分けができるのに、王妃が誰なのかわからない。
C自分の体がガラスで出来ていると思い、誰かとぶつかった時に割れてしまわないように、鉄の棒を服に縫い付ける。
などが記録に残っています。」
big5
「国王がこのような状態なので、政治は親族が担当するようになります。ただ、誰が主導権を取るかで揉めごととなり、分裂しました。王の従兄弟で王妃に近いブルゴーニュ公ジャンのブルゴーニュ派と、シャルル6世の弟であるオルレアン公ルイのアルマニャック派です。1407年、ブルゴーニュ派はオルレアン公ルイを暗殺したことにより、フランスは本格的に分裂。イングランドはブルゴーニュ派と手を結びました。
余談ですが、1396年のニコポリスの戦いオスマン帝国の台頭とビザンツ帝国の滅亡に敗れたフランス軍を率いていたのがブルゴーニュ公ジャンで、捕虜となったのですが莫大な身代金で解放されています。
1415年、イングランド王ヘンリ5世(1387-1422年)は軍を率いてフランスに上陸。フランス軍も迎撃の軍を興し、フランス北部のアジャンクールで両軍は激突しました(アジャンクールの戦い)。アジャンクールの戦いでは、兵力ではフランスが勝っていたのですが、ヘンリ5世の戦術によってイングランド軍が逆転勝利しました。
この勝利がきっかけとなって、イングランドとブルゴーニュの勢力圏は大きく拡大。1422年には、ヘンリ5世とシャルル6世の娘の間に生まれたヘンリ6世(1421-1471年)がイングランドとフランス両国の国王として擁立されました。一方、アルマニャック派はシャルル6世の息子・シャルル7世(1403-1461年)を立てて抵抗を続けましたが、戴冠式を挙げることもできず、かなり追い詰められていました。」
![]()
シャルル7世 制作者:Henri Lehmann (1814-1882) 制作年:1837年
big5
「1428年、イングランド軍はフランス中部の重要拠点・オルレアンを包囲しました。オルレアンが陥落すると、アルマニャック派は本格的に対抗する術を失うことになり、戦争の敗北は確実となります。フランス王国の運命はまさに風前の灯火という状況でした。そんな時に現れたのがジャンヌ・ダルク(1412?-1431年)です。」
big5
「ジャンヌ・ダルクは「神の啓示を受けた」と言ってシャルル7世のもとに向かいます。もちろん、最初は信用されませんでした。しかし、ジャンヌが持つ神秘性が確認されるようになると信頼されるようになり、包囲されているオルレアンに向かいました。1429年、ジャンヌに鼓舞されたフランス軍は、オルレアン包囲中のイングランド軍への攻撃を始め、陥落寸前だったオルレアンを救うことに成功しました。
オルレアンを救出したことでシャルル7世は戴冠式を挙行。アルマニャック派は巻き返し始めます。巻き返しの旗手となったジャンヌ・ダルクは1430年にブルゴーニュ派に捕えられ、その後イングランドに送られて「異端」宣告を受け、1431年に火刑に処されました。しかし、シャルル7世は、その後1435年にブルゴーニュ派と和解して分裂したフランスを再び統合し、さらにイングランドに占領された地域を次々と奪還。1453年には、イングランドの大陸領はカレーを除いてすべてフランスに奪還され、約110年に及んだ百年戦争はフランス勝利で終結しました。」
というわけで、今回はここまで。ここまで読んでいただきありがとうございました。」
この解説は、管理人の趣味で作成しております。解説が役に立ったと思っていただければ、下記広告をクリックしていただくと、さらなる発展の励みになります。