センター試験 世界史B 2014年

第3問

問1(通し番号:19)
空所にあてはまる用語の選択問題。まずアに入るスペイン王は、フェリペ2世になります。解答のカギとなるのいくつかありますが、導入文最後の「イが、1588年に無敵艦隊を破った」というのが、多くの受験生のヒントになるのではないかと思います。フェリペ2世はスペイン全盛期の王でしたが、治世後半ではイギリスのエリザベス1世との戦いで、自慢の無敵艦隊が大敗北するという、その後のスペイン没落を暗示するような事件が起きています。
その他の解答のカギとしては
・カトー=カンブレジの和約締結(イタリア戦争終結)
・地中海域の海戦でオスマン帝国に勝利(レパントの海戦)
・ポルトガル王位継承(フェリペ2世はポルトガル王家直系が断絶したのを機会に、ポルトガル王を兼ねた)
・圧政を行ったネーデルラントで反乱が起きた(オランダ独立戦争開戦)
などがあります。いずれもフェリペ2世の時代の話です。
続いて、空欄イに入る国がイギリスかスウェーデンか、については、上記のように無敵艦隊を破ったのはイギリスです。以上より、Bが正解となります。

問2(通し番号:20)
スペイン内戦に関する正誤判定の問題です。まずaの「フランスは不干渉政策を採った」は、そのとおりです。bの「人民戦線側には、他国からの義勇兵が参加した」も正しいので、正解は@となります。
スペイン内戦は、第二次大戦勃発の前に起きた、イタリア・ドイツのファシズムの台頭を象徴する事件でした。左翼のスペイン人民戦線政府に対し、ファシストのフランコ将軍が反乱を起こし、フランコ将軍をイタリアとドイツが支援する一方で、イギリスやフランスは不干渉を決め込んだために、フランコ側の勝利となりました。なお、敗れた人民戦線政府側には、ファシストの台頭を危惧する外国の義勇兵が援軍として参加していますが、ドイツの最新兵器の力などもあったため力及ばず、敗北を喫しています。

問3(通し番号:21)
カトー=カンブレジ条約に関連して、とありますが、解答のポイントは各選択肢の正誤判定にあります。@のカストロは、アメリカではなくキューバ革命の指導者なので誤り。Bのアイゼンハウアーは、ドイツではなくアメリカの大統領です。アイゼンハウアーは第2次大戦で活躍した将軍で、戦後アメリカの大統領となりました。Cのマッキンリーは、アメリカの大統領であることは正しいのですが、「棍棒外交」が違います。「棍棒外交」を進めたのはマッキンリーではなく、セオドア・ローズベルトなので誤り。以上より、Aが正解となります。
なお、この頃のアメリカの外交政策を表現する言葉をまとめると、以下のようになります。

棍棒外交

セオドア=ローズベルト大統領が進めた外交政策。(「棍棒外交」という名前からでは、内容を推測することは難しいです。)アメリカが、南北アメリカ大陸世界におけるリーダーとなるべく、ラテン・アメリカ諸国に積極的に介入する政策。具体例として、パナマ地方を領有していたコロンビアからパナマ共和国として強制的に独立させ、そのパナマ共和国から権利を得て、パナマ運河を建築したことがあげられます。「カリブ海政策」ということもあります。

善隣外交

フランクリン=ローズベルトが世界恐慌への対策として展開した、ラテン・アメリカ諸国に対して高圧的な「棍棒外交」ではなく、友好的な外交政策。具体例として、キューバに対するプラット条項を排除したことがあげられます。


問4(通し番号:22)
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにおける国際関係の問題です。19世紀末から20世紀初頭というと、だいたい1880年〜1920年くらいでしょうか。この間の大イベントは、なんといってもやはり第一次世界大戦です。そういう発想ができると、空所にあてはまる国におおよその検討がつきます。第一次世界大戦の背景の一つに、ドイツのウィルヘルム2世による世界政策があげられます。ウィルヘルム2世は、イギリスのように世界各地に植民地を築き、世界帝国となるべく軍備増強とアフリカ侵略を進めました。以上を考えると「ア」にあてはまるのはフランスではなくドイツ、となります。「イ」については、第一次世界大戦でドイツ側で参戦した国を思い出してみましょう。オーストリアとイタリアの三国同盟(ただし、イタリアは途中で脱落)ですので、イタリアはあり得ません。そうなると、残るのはイギリスだけになります。以上より、正解は@となります。

問5(通し番号:23)
第一次世界大戦の講和条約の内容を選ぶ問題です。各選択肢を見ていくと
@ライン同盟
1806年にナポレオンが作らせた、中小ドイツ諸侯国をまとめた同盟です。したがって、これは誤りです。
これまで、中小ドイツ諸侯国は「神聖ローマ帝国」という、一種の連邦を形成していました。この神聖ローマ帝国の中でも、強い力を持っていた国が2つあります。神聖ローマ帝国の皇帝として、諸侯の上に立っていたのがハプスブルク家のオーストリアと、新興勢力のプロイセンです。ナポレオンは、中小ドイツ諸侯国を、オーストリア、プロイセンから切り離してフランス側に取り込むために、ライン同盟を結成させました。

A第1回対仏大同盟
1793年に、フランス革命に対抗してヨーロッパ諸国が結成した同盟です。したがって、これは誤り。
フランス革命によりルイ16世が処刑されるなど、革命が進行するにつれて恐怖感を抱いたヨーロッパ諸国が、革命勢力に対抗するために革命フランスを敵国とした同盟を結成しました。

Bドイツの軍備制限
これが正解です。第一次大戦で敗戦国となったドイツには、たいへん厳しい制裁が科せられました。これが、後にヒトラーを台頭させる下地にもなっています。

Cスイスの独立承認
スイスの独立が承認されたのは、ドイツ三十年戦争の講和条約である1648年のウェストファリア条約です。したがって、これは誤り。

問6(通し番号:24)
ニュルンベルク裁判が行われた時期を選ぶ問題です。ニュルンベルク裁判は、第2次大戦後に敗戦国となったドイツに対し、イギリスやアメリカなどが原告となって起こした裁判です。裁判が始まったのは戦後間もない1945年なので、Bのcが正解となります。
ただ、ニュルンベルク裁判が何年に行われたか覚えていない受験生も多いと思います。仮に知らなかったとしても
「ニュルンベルク裁判⇒第2次大戦後に行われた戦勝国による裁判」
だと知っていれば、少なくとも@やAでないことは予想できるため、BかCのどちらかに絞ることができます。裁判は、戦後からあまり間を置かない方がよさそうなので、Bの可能性が高い、という流れで正解に至ることも可能です。

問7(通し番号:25)
中華人民共和国の外交について、歴史順に並べる問題です。
<問題の背景>
第2次世界大戦終結後、中国では国民党と共産党の戦いが再び行われた結果、共産党が勝利。共産党は中国本土に「中華人民共和国」を建国し、敗れた国民党は台湾に逃れて「中華民国」を建国しました。ポイントは、本土の「中華人民共和国」は社会主義陣営の国で(何しろ建国者が共産党なので)、台湾の「中華民国」は資本主義陣営の国、ということです。そのため、東西冷戦時代、資本主義陣営トップのアメリカとそれに追随する日本は、台湾の「中華民国」を正当な「中国」としていました。
@その風向きが変わり始めたのが1969年に起きた「中ソ国境紛争」と呼ばれる、国境問題をきっかけとした中国とソ連の軍事衝突でした。社会主義陣営のツートップとも言えた中国とソ連は、この事件をきっかけに関係がギクシャクし始めます。
Aそこに目をつけたのがアメリカです。アメリカは、中国よりもソ連を警戒していたので、中国とソ連の紛争はアメリカにとって好都合でした。1972年2月、アメリカのニクソン大統領は台湾の「中華民国」ではなく、「中華人民共和国」を正統な中国と認め、中華人民共和国と国交を持ったのです。ニクソン大統領の中国訪問は、前触れなく突然行われたため、世界にとって大きなサプライズだったので「ニクソンショック」とも呼ばれています。
B資本主義陣営の日本も、台湾の「中華民国」を正統な中国としていました。特に台湾は日清戦争以後、正式な日本領だった歴史があるため、日本国内には「親台派」と呼ばれる勢力が存在していました。しかし、時の首相・田中角栄は、アメリカが「中華人民共和国」を正統な中国とした以上、日本だけが異なる外国関係を持つことは難しいと考え、1972年9月、日本も「中華人民共和国」と日中平和友好条約を結び、国交を回復しました。
以上より、b⇒c⇒aとなっているCが正解となります。
このように、各歴史イベントが発生した年を暗記するよりも、時代の移り変わりをストーリーとして覚えておく方が、問題を解くうえで応用がききやすいです。

問8(通し番号:26)
1990年代に起こった出来事ではないものを選ぶ問題です。各選択肢の発生年度は以下の通りです。
@ソ連解体:1991年12月
A湾岸戦争:1990年8月
Bインド・パキスタンの核実験:1998年
C朴正煕が韓国大統領に就任:1963年
以上より、正解はCとなりますが、おそらくこの4つの発生年を覚えている受験生はほとんどいないと思います。@とAについては覚えておくべき重要事件ですが、Bのインドとパキスタンの核実験はややマイナーな事件かもしれません。考え方としては、新興国であるインドが核を持つようになったのは、大戦後しばらく経った後(大戦後間もない頃は、独立がメインテーマだったので)の話だと考えると、1990年代に起こりそうな出来事だと予想できます。Cについては、かなりマイナーな問題ですが、朴大統領の白黒写真などが記憶に残っていれば、「カラー写真ではないから1990年代ではない」と予想することができます。

問9(通し番号:27)
マカオがどこの国の植民地だったかを問う問題です。香港はイギリスの植民地だったことはわりと有名ですが、マカオについては「名前は知ってるけど、どこの植民地だったかは知らない」という人は多いと思います。正解は@のポルトガルです。これは知らないと解けません。
問題文の記述のとおり、ポルトガルは16世紀に、明からマカオ永住権を認められました。ただしこれが「マカオ=ポルトガル植民地」となったわけではなく、マカオの統治権はあくまで明王朝が握っていました。植民地化されるのは、アヘン戦争で香港がイギリスの植民地となった後のことでした。

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