Last update:2023,Dec,16

平将門の乱 詳細篇 その2 将門喚問〜信濃千曲川の戦い

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「さて、今回は「日本史 武士の台頭」の「平将門の乱」の「詳細篇その2」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人は、まずはこちらの本編、その1を見ていない人はその1から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」

<目次>
1.将門喚問
2.937年8月6日 子飼渡の戦い
3.937年8月17日 堀越の戦い
4.937年9月 真壁郡の戦い
5.937年12月 石井の戦い
6.938年2月 信濃千曲川の戦い


将門喚問


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「936年(承平6年)7月の下野国境の戦いで将門が勝利し、その後関東の情勢は落ち着いていたようなのだが、源護が将門を朝廷に訴えたことで、状況が変わる。前回同様、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
源護が訴えにより、朝廷から左近衛番長の英保純行(あなほのともゆき)、同じく氏立、宇自加支興(うじかのもちおき)らによって「護、将門、平真樹らは出頭せよ」との官符が届いた。これを受けて将門は10月17日に急いで上京。将門の説明により、将門の罪は軽いということで事なきを得、しかもその武勇は京都にも知れ渡ることになった
年が明けて937年(承平7年)4月7日、朱雀天皇元服の恩赦で将門は無罪放免となり、5月11日に京都を発って本拠に帰った。
という話だな。」
big5
「幸田露伴の平将門によると、源護が将門を訴えたという件の書き下し文は以下になります。
然る間前(さき)の大掾(だいじよう)源護の告状に依りて、件(くだん)の護並びに犯人平将門及び真樹(まき)等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来
「真樹(まき)」とは侘田(わびた)真樹のことで、平国香の属僚の中のそうそうたる者だ、と書いています。このあたりは特に疑問点はないですね。
都で将門が申し開きをした時の記述については、海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で
『何況一天恤上、有百官顧』
「一天上に恤(あわれ)み、百官の願あり」とあるため、これは将門が自分に有利になるために相当の賄賂を使った、という意味を含んでいるのではないか、と考えていますね。」
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「そうかもしれない。だが、その一方で将門にそこまでの財力があったのか、という疑問も残るな。将門は、この時点では国司でもない、ただの開発領主だ。その将門に、朝廷工作ができるほどの力があったとは考えにくいな。その面から言えば、前常陸大掾である源護の方が有利だった気がするぜ。」
big5
「ところで、幸田露伴はこの件について「事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。」と書いていますね。露伴によると「将門は何度も符で呼び出され、最初は上洛したがその後は上洛せず、英保純行に委曲を告げていた」と書いています。」
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「幸田露伴が何を根拠にそう書いたのか、よくわからないな。この経緯を知っている方がいたら、是非教えてほしいぜ。」

937年8月6日 子飼渡の戦い

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「次の話は、937年(承平7年)8月6日の子飼渡の戦いだ。幸田露伴の「平将門」では「小貝川」と記載しているが、ここでは「子飼渡」としておくぜ。これも、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
帰郷して間もない将門に対し、再び良兼が兵を集めて戦を挑んだ。良兼も「会稽の心」を忘れていなかった。8月6日、常陸と下総の境である子飼の渡しで両軍は対峙した。良兼は上総介高望王と鎮守府将軍平良将の像を掲げて、精鋭を集めて将門を攻撃した。将門軍は数も少なく士気も上がらなかったため、たちまち敗れて楯を背負って退却した。良兼軍は下総国豊田郡の栗栖院、常羽の厩を焼き払い、略奪・狼藉の限りを尽くして、翌日に帰っていった。
という話だな。これまで、3戦3勝だった将門が、初めて手痛い敗北を喫したことになるな。」
big5
「今回は、将門の本拠である豊田郡が良兼軍によって焼き払われる、という被害を受けていますね。『将門記』によると、将門が敗れた理由は、良兼軍が彼らの祖である平高望と将門の父である平良将の像を掲げて攻めてきた、ということと、そのせいで?士気が下がってしまったこと、を上げていますね。」
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「像を作ってそれを前面に押し出す、というのは西洋でもたまに見られる作戦だが、こういう話が出てくるとたいていは像を使った方が勝つイメージがあるな。」

937年8月17日 堀越の戦い

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「次の話は、937年(承平7年)8月17日の堀越の戦いだ。8月6日の子飼渡の戦いで敗れた将門が、逆襲に転じた戦いだ。これも、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
将門は以前の倍の兵を招集し、楯370枚を用意して豊田郡大方(おおかた)郷の堀越で陣を構えた。約束の時間になると、良兼の大軍が雲のように現れた。この日、将門は脚病(脚気?)で意識が朦朧としてしまい、まともに戦えなかった。大将がこの様子で勝てるわけもなく、将門軍は再び敗北し、子飼渡の敗北でも残った民家も焼き払われてしまった。将門は妻子と共に辛島郡葦津江に隠れ、その後妻子は広河の江に隠れ、将門は陸閉(むすへ)に隠れた。18日、良兼軍は帰って行ったので、妻子らは隠れ場所から出てきたが、良兼軍に買収された者がこれを報告。妻子は捕らえられ、雑物・資具3000余端も奪われてしまった。これを知った将門は憤きどおると共に魂が死んだようになってしまった。しかし、妻の弟らの策によって9月10日には豊田郡に帰ってきた。
という話だな。子飼渡の戦いに続き、今度は将門の病気が原因で敗北。これで3勝2敗になってしまったわけだ。」
big5
「まず地名について。幸田露伴の「平将門」によると、大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は堀籠村というところ(今は水路が変わって渡頭ではないが)、としています。また、葦津江は今の蘆谷、広河の江は今の飯沼、陸閉は不明だがおそらく降間(ふるま)の誤写で、後の岡田郡降間木(ふるまぎ)村の地だろう、としています。
さて、この部分については『将門記』の記述は文意が捉えにくくなっており、以前からいくつかの解釈が出ています。幸田露伴の『平将門』によると、清宮秀堅は
「将門の妻は殺されたのではなく上総に捕らわれ、9月10日に弟の謀によって逃げ帰った。」
としている、と記しています。幸田露伴本人は
「然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様どうも妻子は殺されたらしく、逃還にげかへつたのは一緒に居いた妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不少」「件妻背同気之中、迯帰於夫家」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存真婦之心」「妾之舎弟等成レ謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾字、形相近いから何共紛まぎらはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。」
としたうえで、「妻子は殺されて、捕えられた妾は逃げ帰った」と当面は考えている、としています。
幸田露伴の考えを継いでいるのが海音寺潮五郎で、『悪人列伝』で、捕えられて弟の策で逃げ帰った妾に関しては、将門の妻は良兼の娘で、弟とは良兼の息子である公雅や公連ではないか、と記していますね。」
small5
「この問題は
@「将門記」における「妻」と「妾」は明確に別物としてきちんと使い分けられているのか?
A将門には正妻(妻)と側室(妾)がいたのか?
という情報が整理されないと、いろいろな解釈が可能になっているな。」

937年9月 真壁郡の戦い

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「ここから、将門の反撃が始まる。これも、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
9月、常陸の親戚縁者の所に良兼がいると知った将門は、1800の兵を率いて出陣。19日には真壁郡に至って良兼を襲撃。良兼に味方する者の家を焼き払った。良兼を探したところ、筑波山に良兼が隠れていると聞いてこれを追跡。23日に、弓袋山で良兼軍と思しき1000人余りの声を聞き、露営して探したが見つけ出せず、将門は帰った。
という話だ。この戦いは将門の優勢勝ちとも言えるが、思ったほどの戦果は上がっていないようなので、引き分けといってもいいかもしれない。」
big5
「ここで、将門が1800の兵を率いているところが興味深いですね。この前後の戦いの記録を見ても、将門が2000弱の兵を動員したのはここが初めてだと思います。妻が帰還してきたことと、動員兵力の多さには何か関係があるのかもしれないですね。」
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「そうかもしれんが、俺はその可能性は低いと思う。将門記の記載は間違いあるいは誇張で、実際は180くらいだったんじゃないか、と思うぜ。良兼軍も、1000も山の中に隠れていた書いてあるが、1000人もの人間が、山の中で隠れ続けるというのは不可能だと思う。それを、将門軍1800人が探して見つからない、というのも不自然だと思うぜ。良兼軍100人を、将門軍180人が探したが見つからなかった、ならあり得る話だと思う。」

937年11月 富士山噴火

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「さて、ここで『将門記』には記載が無いが、影響が大きかったであろう事件について記しておくぜ。承平7年(937年)の11月、富士山が噴火するという事件が発生した。『日本紀略』には「十一月某日,甲斐國言,駿河國富士山神火埋水海」とあり、おそらく溶岩流が富士五湖の辺りにまで流れ込んできたのではないか、と考えられているぜ。」
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「それほどの規模の噴火となると、おそらく火山灰が広く飛んで関東平野の畑にもかなりの悪影響があったのではないか、と思いますね。」
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「だが、それだけの影響があったのなら、将門記でも富士山噴火について触れていてよさそうなもんだが、一言も言及されていないのは不思議な感じがするぜ。」

937年12月 石井の戦い

将門追討の官符と子春丸

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「さて、ここから中盤の山場だな。これも、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
937年(承平7年)11月5日、介の良兼、掾の源護、同じく掾の貞盛、公雅、公連、秦清文(はた きよぶみ)らに、将門追捕の官符が常陸、武蔵、安房、上総、下野に下された。これに対し、将門側の士気は大いに上がったが、国司らは将門追討に進んで取り組もうとはしなかった。将門を討ちたい気持ちでいっぱいの良兼は、ある策を考えた。将門の駆使(使い走りの小者)である丈部(はせつかべ)子春丸(こはるまる)という者が、常陸国石田庄にたびたび出入りしていた。良兼は子春丸を捕まえて寝返りを進めると、子春丸は快諾。良兼は喜んで、東絹一疋を贈り、さらに成功したら騎乗できる郎党に取り立ててやる、と約束。子春丸は良兼の手先である農民を連れて、石井の営所に帰り、武器の置き場や将門の寝室、馬場や出入り口などの情報をすべて知らせた。
という話だな。」
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「海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で、将門追討の官符が下ったのは12月5日、と書いてますが、11月の間違いでしょうね。そして、将門追討の官符は、平良兼や源護らによる朝廷工作の結果だろう、と書いていますね。」
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「そうだろうな。そうでもなければ、約半年前に、恩赦で許された将門に対して、一転して追捕の命令が出る理由がない。金次第で簡単にひっくり返る、当時の朝廷の腐敗ぶりを示す話だと思うぜ。幸田露伴は「将門は強いといっても伊勢太神宮の御屯倉(みやけ)を預かって相馬御厨(みくりや)の司に過ぎないのに、良兼のほうはどうしても官職を帯びているので官符は下った」と書いている。これも原因の一つだろうな。平家一門の私闘ではあっても、無位無官の将門で良兼らでは社会的地位が違うわけだ。
それと、久々に貞盛の名前が出てきたな。しかも源護と並んで「掾」という肩書付きだ。いつの間に「掾」になったのかわからないが、貞盛の父・国香と間違えて書いたのかもしれないな。」

石井の戦い

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「さて、子春丸に連れられて将門本拠の情報を得た農民は、帰って良兼に詳しく報告した。937年(承平7年)12月14日の夕方、良兼が精鋭80余騎を率いて石井に向かった。亥の刻(午後10時)に結城郡法城寺に至ったところ、将門郎党で一騎当千の兵がこれに気づき、闇に紛れて良兼軍80騎に交じって進んだ。誰も気づかなかった。この郎党は、途中で良兼軍を抜けて石井に急ぎ、事の次第を報告。この時、石井の兵は10人にも満たず、大騒ぎとなったが、将門は勇気を奮い起こして部下たちを励ました。卯の刻(午前6時) 良兼軍が石井に到着したが、将門は必死の形相で出撃。良兼軍はこれに驚き、楯を捨てて逃走。しかし将門はこれを追撃し、一の矢で上兵の多治良利(たじのよしとし)を討ち取った。この追撃で、良兼軍は40人が討ち取られた。子春丸は、裏切りが発覚して翌年正月3日に殺された。
という話だな。」
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「この部分は、『将門記』の中でも記録内容が比較的細かいですね。時刻の記載まで登場するのは初めてですね。」
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「そうだな。良兼が夕方にどこから出発したのかはわからないが、翌日の午前6時に石井に到着した、ということは移動時間は12時間くらいだな。馬に乗ってはいるものの、12月の夜に進むのはけっこうしんどかったんじゃないか、と思うぜ。兵たちはほぼ不眠だっただろうしな。」
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「それにしても、将門の武勇・胆力は凄いですね。普通だったら、このような状況になったらまず逃げますよね。」
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「将門の個人的武勇の高さを示す話だな。
さて、この戦いで敗れた良兼の出番は終わりだ。良兼は中盤における将門の強敵だったが、この戦いで敗れた後、話にはほとんど出てこなくなり、翌年の天慶2年6月に病死した、とだけ記されているぜ。
石井の戦い自体はかなり小規模で、被害が大きいと言っても40人の戦死だ。これだけで、良兼の戦力が大きく削がれたとは考えにくいぜ。」

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「将門の手痛い敗北から良兼への逆襲について、他の説も紹介しておきましょう。
・『歴史がわかる!100人日本史』河合敦著
将門はこの戦いで敗れ、妻子も殺害されたといわれている。そこで将門は、良兼と貞盛の悪行を朝廷に訴えた。朝廷は訴えを認め、関東の諸国司に良兼らの追討を命じた。これに力を得た将門は逆襲に転じ、まもなく良兼は病没、貞盛も勢力を失ったのである。」
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「将門が敗れたこの戦いとは、おそらく堀越の戦いのことを指しているのだろう。
それから「将門が良兼らを朝廷に訴え、朝廷もそれを認めて諸国司に良兼追討を命じた」っていうのは、後に登場する反乱した将門から旧主である藤原忠平への手紙で述べられている部分だ。この部分の流れは、幸田露伴も書いているように紆余曲折しているので、流れを整理できるような史料がほしいところだぜ。」

938年2月 信濃千曲川の戦い

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「『将門記』の中盤最後の戦いが、938年(承平8年、この年天慶に改元)2月の信濃千曲川の戦いだ。これも、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
938年(承平8年)2月中旬、平貞盛は戦乱の関東を離れて、都で栄達することに専念しようとして旅立った。一方、これを知った将門は、貞盛が都で讒言することを恐れ、100騎余りを率いて出陣。2月29日、信濃国小県(ちいさがた)郡の国分寺あたりで貞盛一行に追いつき、千曲川を挟んで合戦となった。勝敗は決しなかったが、貞盛方では上兵の他田(おさだ)真樹が矢に当たって討死し、将門方は上兵の文屋(ふんや)好立が矢に当たったが生き延びた。貞盛は呂布の矢を逃れて落ち延び、将門はたいそう悔しがって帰った。
その後、命からがら京都に帰った貞盛は太政官に奏上して将門糾問の官符を得、天慶元年6月に関東に戻って将門を糾そうとしたが、将門は暴悪の限りを尽くした。6月上旬に平良兼が亡くなり困っていたところに、同年10月、平惟扶(たいらのこれすけ)が陸奥守として赴任することとなって下野の国府に到着していた。貞盛は知り合いだったので、事情を話して惟扶とともに奥州に入ろうとした。しかし、将門が貞盛を捕まえようとしたため、彼らは山に隠れなければならなかった。惟扶は貞盛を見捨てて奥州に行った。貞盛は山を家とし、石を枕として逃避行を続けた。 という話だな。」
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「この戦いは、なかなか珍しい戦いですよね。貞盛は、もう関東での抗争がイヤになって京都に帰る、という意識なのに、将門は讒言を恐れて襲撃する、というわけですから、貞盛から見れば、迷惑この上ない話でしょう。」
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「確かにそうだが、将門にとっては貞盛は立派な敵の一人だ。平国香の息子で、源護一派の親戚だ。それに、『将門記』では、貞盛は心ならずも将門と敵対した、と書いているが、そうだとしても将門から見れば立派な敵の一人だ。京都に逃せば、また親戚連中にそそのかされて、朝廷工作をする役回りになるだろう、と恐れるのは自然な発想だと思うぜ。幸田露伴も「貞盛は都へ上って将門の横暴を訴えて天威を借りて滅ぼそうとした」と書いているように、貞盛は初めから将門を訴えるつもりだった、と考えることもできるぜ。」
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「幸田露伴によると
この年(938年 承平8年)の5月に改元されて天慶元年となり、6月に朝廷が将門召喚の官符を出し、常陸介藤原惟幾(これちか)の手から将門に渡されたが、将門は上洛しなかった。惟幾は貞盛の叔母婿であった
と記しています。」

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参考文献・Web site
・詳しくわかる高校日本史
・承平・天慶の乱
・幸田露伴 平将門 青空文庫(著作権消滅のため電子書籍で無料で読めます)




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平将門が100人のうちに採り上げられ、2ページで解説されています。
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