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「さて、今回は「日本史 武士の台頭」の「平将門の乱」の「詳細篇その2」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人は、まずはこちらの本編、その1を見ていない人はその1から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」
<目次>
1.将門喚問
2.937年8月6日 子飼渡の戦い
3.937年8月17日 堀越の戦い
4.937年9月 真壁郡の戦い
5.937年12月 石井の戦い
6.938年2月 信濃千曲川の戦い
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「936年(承平6年)7月の下野国境の戦いで将門が勝利し、その後関東の情勢は落ち着いていたようなのだが、源護が将門を朝廷に訴えたことで、状況が変わる。前回同様、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
源護が訴えにより、朝廷から左近衛番長の英保純行(あなほのともゆき)、同じく氏立、宇自加支興(うじかのもちおき)らによって「護、将門、平真樹らは出頭せよ」との官符が届いた。これを受けて将門は10月17日に急いで上京。将門の説明により、将門の罪は軽いということで事なきを得、しかもその武勇は京都にも知れ渡ることになった
年が明けて937年(承平7年)4月7日、朱雀天皇元服の恩赦で将門は無罪放免となり、5月11日に京都を発って本拠に帰った。
という話だな。」
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「幸田露伴の平将門によると、源護が将門を訴えたという件の書き下し文は以下になります。
『然る間前(さき)の大掾(だいじよう)源護の告状に依りて、件(くだん)の護並びに犯人平将門及び真樹(まき)等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来』
「真樹(まき)」とは侘田(わびた)真樹のことで、平国香の属僚の中のそうそうたる者だ、と書いています。このあたりは特に疑問点はないですね。
都で将門が申し開きをした時の記述については、海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で
『何況一天恤上、有百官顧』
「一天上に恤(あわれ)み、百官の願あり」とあるため、これは将門が自分に有利になるために相当の賄賂を使った、という意味を含んでいるのではないか、と考えていますね。」
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「そうかもしれない。だが、その一方で将門にそこまでの財力があったのか、という疑問も残るな。将門は、この時点では国司でもない、ただの開発領主だ。その将門に、朝廷工作ができるほどの力があったとは考えにくいな。その面から言えば、前常陸大掾である源護の方が有利だった気がするぜ。」
big5
「ところで、幸田露伴はこの件について「事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。」と書いていますね。露伴によると「将門は何度も符で呼び出され、最初は上洛したがその後は上洛せず、英保純行に委曲を告げていた」と書いています。」
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「幸田露伴が何を根拠にそう書いたのか、よくわからないな。この経緯を知っている方がいたら、是非教えてほしいぜ。」
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「さて、ここで『将門記』には記載が無いが、影響が大きかったであろう事件について記しておくぜ。承平7年(937年)の11月、富士山が噴火するという事件が発生した。『日本紀略』には「十一月某日,甲斐國言,駿河國富士山神火埋水海」とあり、おそらく溶岩流が富士五湖の辺りにまで流れ込んできたのではないか、と考えられているぜ。」
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「それほどの規模の噴火となると、おそらく火山灰が広く飛んで関東平野の畑にもかなりの悪影響があったのではないか、と思いますね。」
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「だが、それだけの影響があったのなら、将門記でも富士山噴火について触れていてよさそうなもんだが、一言も言及されていないのは不思議な感じがするぜ。」
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「さて、ここから中盤の山場だな。これも、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
937年(承平7年)11月5日、介の良兼、掾の源護、同じく掾の貞盛、公雅、公連、秦清文(はた きよぶみ)らに、将門追捕の官符が常陸、武蔵、安房、上総、下野に下された。これに対し、将門側の士気は大いに上がったが、国司らは将門追討に進んで取り組もうとはしなかった。将門を討ちたい気持ちでいっぱいの良兼は、ある策を考えた。将門の駆使(使い走りの小者)である丈部(はせつかべ)子春丸(こはるまる)という者が、常陸国石田庄にたびたび出入りしていた。良兼は子春丸を捕まえて寝返りを進めると、子春丸は快諾。良兼は喜んで、東絹一疋を贈り、さらに成功したら騎乗できる郎党に取り立ててやる、と約束。子春丸は良兼の手先である農民を連れて、石井の営所に帰り、武器の置き場や将門の寝室、馬場や出入り口などの情報をすべて知らせた。
という話だな。」
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「海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で、将門追討の官符が下ったのは12月5日、と書いてますが、11月の間違いでしょうね。そして、将門追討の官符は、平良兼や源護らによる朝廷工作の結果だろう、と書いていますね。」
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「そうだろうな。そうでもなければ、約半年前に、恩赦で許された将門に対して、一転して追捕の命令が出る理由がない。金次第で簡単にひっくり返る、当時の朝廷の腐敗ぶりを示す話だと思うぜ。幸田露伴は「将門は強いといっても伊勢太神宮の御屯倉(みやけ)を預かって相馬御厨(みくりや)の司に過ぎないのに、良兼のほうはどうしても官職を帯びているので官符は下った」と書いている。これも原因の一つだろうな。平家一門の私闘ではあっても、無位無官の将門で良兼らでは社会的地位が違うわけだ。
それと、久々に貞盛の名前が出てきたな。しかも源護と並んで「掾」という肩書付きだ。いつの間に「掾」になったのかわからないが、貞盛の父・国香と間違えて書いたのかもしれないな。」
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「さて、子春丸に連れられて将門本拠の情報を得た農民は、帰って良兼に詳しく報告した。937年(承平7年)12月14日の夕方、良兼が精鋭80余騎を率いて石井に向かった。亥の刻(午後10時)に結城郡法城寺に至ったところ、将門郎党で一騎当千の兵がこれに気づき、闇に紛れて良兼軍80騎に交じって進んだ。誰も気づかなかった。この郎党は、途中で良兼軍を抜けて石井に急ぎ、事の次第を報告。この時、石井の兵は10人にも満たず、大騒ぎとなったが、将門は勇気を奮い起こして部下たちを励ました。卯の刻(午前6時)
良兼軍が石井に到着したが、将門は必死の形相で出撃。良兼軍はこれに驚き、楯を捨てて逃走。しかし将門はこれを追撃し、一の矢で上兵の多治良利(たじのよしとし)を討ち取った。この追撃で、良兼軍は40人が討ち取られた。子春丸は、裏切りが発覚して翌年正月3日に殺された。
という話だな。」
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「この部分は、『将門記』の中でも記録内容が比較的細かいですね。時刻の記載まで登場するのは初めてですね。」
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「そうだな。良兼が夕方にどこから出発したのかはわからないが、翌日の午前6時に石井に到着した、ということは移動時間は12時間くらいだな。馬に乗ってはいるものの、12月の夜に進むのはけっこうしんどかったんじゃないか、と思うぜ。兵たちはほぼ不眠だっただろうしな。」
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「それにしても、将門の武勇・胆力は凄いですね。普通だったら、このような状況になったらまず逃げますよね。」
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「将門の個人的武勇の高さを示す話だな。
さて、この戦いで敗れた良兼の出番は終わりだ。良兼は中盤における将門の強敵だったが、この戦いで敗れた後、話にはほとんど出てこなくなり、翌年の天慶2年6月に病死した、とだけ記されているぜ。
石井の戦い自体はかなり小規模で、被害が大きいと言っても40人の戦死だ。これだけで、良兼の戦力が大きく削がれたとは考えにくいぜ。」
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「将門の手痛い敗北から良兼への逆襲について、他の説も紹介しておきましょう。
・『歴史がわかる!100人日本史』河合敦著
将門はこの戦いで敗れ、妻子も殺害されたといわれている。そこで将門は、良兼と貞盛の悪行を朝廷に訴えた。朝廷は訴えを認め、関東の諸国司に良兼らの追討を命じた。これに力を得た将門は逆襲に転じ、まもなく良兼は病没、貞盛も勢力を失ったのである。」
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「将門が敗れたこの戦いとは、おそらく堀越の戦いのことを指しているのだろう。
それから「将門が良兼らを朝廷に訴え、朝廷もそれを認めて諸国司に良兼追討を命じた」っていうのは、後に登場する反乱した将門から旧主である藤原忠平への手紙で述べられている部分だ。この部分の流れは、幸田露伴も書いているように紆余曲折しているので、流れを整理できるような史料がほしいところだぜ。」
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