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「さて、今回は「日本史 武士の台頭」の「平将門の乱」の「詳細篇その3」いうことで、本編では省略したより深い話を紹介していくぜ!まだ本編を見ていない、っていう人は、まずはこちらの本編、その1を見ていない人はその1、その2から見てくれよな。」
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「詳細篇はいつもどおり、OLさんの代わりに私が聞き役になります。」
<目次>
1.939年2月 武蔵国騒動
2.939年11月21日 常陸国衙襲撃
3.939年12月 新皇即位
4.諫言と将門の手紙
5.慌てふためく京都 貞盛の妻
6.940年2月 北山の戦い
7.平将門の乱の終焉
8.藤原秀郷は将門を見限った?
9.平将門の評価
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「939年(天慶2年)2月、武蔵の国で、新任国司と軍事の間で揉め事が発生した。この騒動に将門が関与することで、事態は新たな展開を迎えることになるぜ。前回同様、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
この年、武蔵国の権守として興世王、介として源経基が任命され、両者は武蔵に赴任した。興世王と源経基は、赴任早々に税を取り立てようとしたが、郡司の武蔵武芝は「正式な国司が任命される前に、権守や介らが入ってくる前例はない。」と言って認めようとしなかった。郡司ごときが無礼である、といって興世王と源経基は武装した部下を引き連れて民家に押し入り、財物を奪い取っていった。武蔵武芝は身の危険を感じて山へ隠れた。2人の強欲ぶりは、国府の役人からも非難されたが、気にする様子もなかった。武芝は強奪した財産を返すように頼んだが、2人は答えずに合戦の準備を始めた。
これを聞いた将門は「争いを鎮めるために武蔵に行こう」と言って、兵を率いて出発し、まずは武芝と会った。興世王と源経基は比企郡狭服山に隠れて戦の準備をしている、という。将門と武芝が国府に行くと、興世王がいた。源経基はまだ山にいた。将門、武芝、興世王は酒宴を開いて和解した。しかし、この間に武芝の兵が源経基の営所を包囲し、戦に慣れていない経基は驚いて逃げてしまい「興世王と将門は、武芝にそそのかされて私を討とうとしたのだ」と恨み、京都で彼らの謀反を訴えた。太政大臣・藤原忠平は、調査命令を下し、天慶2年3月25日に中宮少進多治真人助真に届き、同月28日に将門に届いた。将門は、常陸、下総、下毛野(下野)、武蔵、上毛野(上野)の五か国の公文書を添えて謀反は無実である、と5月2日に応えた。
この年の6月中旬、平良兼は病にかかり、髪を落として出家して間もなく亡くなった。
武蔵には百済貞連が武蔵守として赴任した。興世王と百済貞連は姻戚だったが仲が悪く、国衙の会議にも出なくなり、ついに興世王は武蔵を離れて将門の下に身を寄せた。一方の朝廷では、将門が諸国で評判が良いため、将門に叙位任官の話が出ていた。
という話だな。」
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「武蔵武芝の登場で、平将門の乱も後半ですね。武蔵の国での揉め事に対して、将門が兵を率いて仲裁に出る、というのが将門勢力が大きく伸びていることを示していますよね。海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で、「将門は大親分になっていたのだ」と書いていますが、まさにその通りだと思います。」
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「そうだな。朝廷からの調査に対して、関東5か国から「将門に謀反なし」という公文書を出してもらえたことも、それを示しているだろうな。おそらく、良兼らとの戦いに勝ち、武名を轟かしたことが、周囲にも「強い将門」というイメージを与え、一目置かれる存在になったんだろうな。やはり武士は武名が命だと思うぜ。
それに比べて、源経基はダメだな。経基は後の源義家や源頼朝といった、源氏嫡流の祖先なのだが、末裔たちとは程遠い、武名とは縁遠い人物だぜ。ちなみに、後で出てくるが経基は誣告(ぶこく)の罪に問われるぜ。」
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「ここから、ついに将門が朝廷に弓を引くことになってしまう、直接のきっかけの話だな。今回も、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
常陸の藤原玄明(ふじわらはるあき)は国の秩序を乱し、民衆を迫害する毒害である。弱い民衆から略奪し、国府の役人を脅して税を全く納めなかった。長官の藤原惟幾(ふじわらこれちか)は玄明を逮捕しようとしたが、玄明は将門の基に逃げ、将門はこれを匿った。惟幾は、将門に対して玄明を引き渡すように要求したが、将門は「既に逃げた」と言って白を切った。玄明はますます図に乗り、惟幾に戦を仕掛けたい旨を将門に伝えると、将門は協力する、という様子を見せた。玄明は張り切って戦の準備をした。
という話だ。」
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「ここれ登場する藤原玄明ですが、将門記では大悪人として紹介されていますね。藤原玄明は謎が多い人物ですが、おそらく常陸に土着した受領の末裔なのではないか、と考えられています。
一方の藤原惟幾ですが、こちらは常陸介であり、妻は平高望の娘、つまり将門や貞盛から見ると、叔母の夫にあたります。」
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「それにしても不思議なのは、なぜ玄明のような悪人を将門が保護したのか?ということだよな。海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で「不幸な人間を見ると助けずにはいらなれない。親分なのだ」と書いている。確かにそうなんだが、それにしても玄明のような人物まで助ける必要は無いと思うぜ。それをやってしまったのが、将門が破滅への道を歩む原因になるわけだな。」
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「939年(天慶2年)11月21日、将門は兵を率いて常陸に入った。将門は藤原玄明を常陸に住まわせて、逮捕してはならない」と要求したが、惟幾は拒否し合戦となった。戦い、国衙の軍3,000は皆討ち取られた。将門軍1000余は国府を包囲し、惟幾と詔書を持ってきた朝廷の使いは将門に降伏した。国府に蓄えられていた富は、将門軍に収奪され、国府の役人らは暴行され、生き恥を晒した。翌朝、常陸の国印と国庫の鍵を奪い、29日に豊田郡鎌輪の宿に戻った。惟幾と詔使はある家に住まわせたが、彼らは夜も寝られず、食も進まなかった。
という話だ。」
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「このあたりから、『将門記』の記述内容が、将門に対して厳しくなっていますね。『将門記』の作者は不明なのですが、このあたりの変化を考えると、どこかの国府の役人だったのではないか、という説も十分考えられますね。」
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「表向きはどうであれ、やっていることは大規模な野盗と同じだからな。将門が「反乱軍」とみなされて追討されるのも仕方ないと思うぜ。」
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「常陸国衙を襲撃したことで、将門の乱は一気に加速していく。今回も、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
興世王は将門に「一国を討てば罪は軽くない。同じ事なら、坂東の地を奪い取って様子を見よう。」と話し、将門も「将門は桓武天皇の末裔である。いずれ京都も攻略しよう。まずは、関東8国を襲って国印を奪い、受領はすべて京都に追い払ってしまおう。」と答えた。
天慶2年12月11日、将門は数千の兵を率いて下野に入った。将門軍は立派な馬に乗り、雲のような従者を率いて士気は高かった。下野の新任国司である藤原公雅、前の国司の大中臣全行は国印を捧げて将門に降伏した。下野国府は占領され、すべてを奪われて国司らは追放された。
939年(天慶2年)12月15日、上毛野の介である藤原尚範(ひさのり)は国印を奪われ、19日には使者に付き添われて都に追われた。その後国府を占領し、関東諸国の国司を任命した。この時、一人の昌伎が八幡大菩薩の使いと口走り、「朕の位を蔭子、平将門に授ける。これに連署するのは左大臣正二位菅原朝臣の霊魂である。今、32相の音楽をもって迎えよ。」と言った。将門は二度礼拝し、新皇を名乗った。
将門が任命した国司は以下の通りである。
下野守:平将頼
上野守:常羽の御厨の別当、多治経明
常陸介:藤原玄茂(はるもち)
上総介:武蔵権守・興世王
安房守:文屋好立
相模守:平将文
伊豆守:平将武
下総守:平将為
そして、王城は下総の亭南とし、?橋(ふなばし)を京の山崎とし、相馬郡の大井の津を京都の大津とする、とした。また、左右大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史を決め、内印・外印の寸法、字体も定めた。ただ、暦日博士だけが決まらなかった。
という話だ。」
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「藤原玄明に続いて、将門の乱を大規模なものにした原因の2人目、興世王の見せ場ですね。「一国を討って罰せられるくらいなら、八国を奪って朝廷の出方を見よう。」という、悪人らしさ全開のセリフですよね。」
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「だな。ただ、ある意味では真実でもある。一国で蜂起しただけなら、単なる反乱軍だが、もっと広い範囲で蜂起し争いに勝利すれば「王朝交代」になるわけだ。そんなわけで、常陸の次は下野を占領し、さらに上野も襲ったところで、部下や弟たちを各地の長官に任命している。ここでよく言われるのが「そんな必要ないのに、常陸と上総には「守」を置かずに「介」を実質的な長官としている、京都朝廷の習慣を踏襲してしまっている。」という話だな。関東では常陸と上総、そして上野は親王でなければ「守」に任じない、という習慣になっていた。そのため、これらの国では「介」が実質的な「守」であったわけだ。将門は、朝廷から独立して自分たちで諸国の長官を任命しているにも関わらず、組織体制の習慣が京都朝廷を引き継いでしまっているので、政治力が足りないことの証左、というわけだな。俺も、この意見にはおおむね賛成だが、不思議なことに上野のみは「守」を置いている。これはいったいなんでなんだろうな?」
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「もしかしたら、上野は将門らの本拠地からわりと遠いので、上野の実質長官は「介」であることを知らなかった、かもしれませんね。」
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「いずれにせよ、将門が作った新組織は、左右大臣を置いたり、参議を置いたりと、京都朝廷をマネしている。彼らがなりたくてなれなかった憧れの地位を、自称して満足したかったんだろうな。それと、当時の一般民衆には「国家」の概念はまだないから、京都朝廷の組織名をそのまま使った方が、権威が通じやすかったのかもしれない。そう考えると、常陸と上総は「介」にしたのも、一般民衆にわかりやすくするためだったのかもしれないな。もっとも、それだと上野だけなぜ「守」にしたのか?という点が疑問に残るが・・・」
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「京都朝廷の組織を踏襲する、という意味では船橋を京都における山崎とし、相馬郡大井の津を京都の大津としたり、これも京都の真似っこですよね。この辺りを見てると、将門や興世王など、都で出世の道に乗れずに地方に落ちてきた人々、いわば「負け組」が、「勝ち組」のマネをして嬉しそうにしている、という無邪気な姿が想像できますね。」
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「そして、最後は「新皇即位」だな。即位のきっかけは、昌伎が八幡大菩薩の使いとして神託を受けたことだ。たいていは、「将門らが昌伎に教えて言わせた」と考えられているのだが、海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で
「昌伎とは、国府の隣にある総社所属の巫女であろう。そして、神がかりで発せられる言葉は、平生の見聞や意識下の思考にあるはず。おそらく、この昌伎は生まれて初めて除目の儀式を見て興奮し、本当に将門が腐敗しきった京都朝廷と藤原氏の専横から自分たちを解放してくれる、この世界の背景には天皇家と藤原氏による権力争いに起因しているのだ、という認識は持っていたであろう。」
と書いている。なかなか面白い見解だと思うぜ。」
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「そうですね。ただ、私はもっと根本的な部分、『将門記』の作者が、昌伎の神がかりをどのようにして知ったのか、というところが疑問ですね。自分自身が聞いたのかもしれないですし、余りにも衝撃的な内容だったので一般民衆に広がり、広がる際に伝言ゲームの要領でどんどん話が大きくなって、このような発言内容が記録されたのではないか、と思いますね。」
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「将門の新皇即位、そして京都朝廷を排した新体制に湧きたつ将門陣営だったが、これを諫める人物が出てくる。今回も、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
新皇の弟の将平らは「帝王の業とは、智で競うものではなく、力で争うものでもありません。すべて天が与えたものです。どうして論じることができましょうか。後世、そしられることになります。」と言ったが、将門は「将門は関東で武名を上げ、その名は京都にも田舎にも轟いている。我が国に前例が無くても、他国では大契丹王(耶律阿保機)が渤海国を討って東丹国となったではないか。加えて、我らは兵も多く、経験も積んでいる。士気の高さは漢の高祖の軍をもしのぐだろう。朝廷から軍が攻めてきたら、足柄・碓氷の2関を固めれば坂東は守れる。」と言って聞かなかった。
内竪(ないじゅ 小姓)の伊和員経(いわかずつね)は「諫臣がいれば君主は不義に落ちないものです。もし諫臣がいなければ、国は滅びるでしょう。「天に違えば災いがあり、王に背けば罰をうける」といいます。よくお考えの上で、天裁を賜ってください。」と。しかし将門は「能力は人によって異なる。ある人には不幸となり、ある人には幸福となる。一度発した言葉は、四頭立ての馬車でも追いつけない。だから、言葉に出して成し遂げないわけにはいかない。決めたことを覆そうとするのは、お主に考えが足りないらだ」と言って追い返した。
という話だな。」
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「諫言の内容も、将門の答えも、けっこうレベルが高いですよね。外国の事例や故事を持ち出すなど、田舎の武士が知っているとは思えない内容です。」
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「俺もそう思う。セリフの内容は、おそらく『将門記』の作者の創作、もしかしたら諫言があったこと自体が創作なのかもしれない、と思うぜ。ただそうだとしても、当時の知識人ならどのような諫言をするのか、という面では貴重な史料だな。」
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「さて、新皇となった将門は、以前仕えていた藤原忠平に手紙を送っている。『将門記』には、その内容が載っているんだ。全文は長いので、要約すると以下のようになるぜ。
1.将門は上京してから、恩赦の恵みにあずかったため、故郷に帰った。にもかかわらず、平良兼は兵を率いて将門を襲い、何人もの人々が殺された(子飼渡しの戦い)。
2.将門が良兼の暴虐を下総の上申書に記して太政官に申し上げたところ、平良兼を追捕せよ、という官符が下された。それなのに、将門を召喚するという使いが送られ、不安でならなかったの官使の英保純行に詳細を伝えた。
3.それに対する裁決が下らない中、今年の夏に平貞盛が将門を召喚する、という官符を持って常陸にやってきた。そして、国司は将門に書状を送ってきた。将門は追捕を逃れて京都に流れていった者。貞盛を捕らえて事をただすべき。
4.常陸介藤原惟幾の息子の為憲は、公の威厳を借りて暴虐を好み、将門の従兵である藤原玄明の訴えによって、将門は常陸に出向いた。しかし、貞盛と為憲は3000の精兵を率いて将門に挑んできた。将門は士卒を激励して戦い、これを討ち果たした。これは将門の本意ではない。
5.藤原惟幾は、息子の為憲のせいでこのような兵乱に及んでしまった罪を認める詫び状を出した。
6.一国を討った罪は大きいと思う。しかし、将門は柏原帝王の五代の子孫であり、日本の半分を領有したとしても天命ではない、と言い切れない。史書には、武力で天下を取った者が載っている。
7.将門の武芸は極めて優れ、並び立つ者などいないのに、朝廷は褒めるどころか譴責ばかりしている。将門の面目は丸つぶれです。
8.将門は少年の頃、名簿を太政の大殿に奉りそれから数十年、今に至る。相国様が摂政になった世に、思いがけない事件となり、嘆くばかりで何も申し上げられませんが、旧主であるあなたを忘れることはできません。これを察していただければ幸いです。
天慶2年12月25日 太政大殿の少将閣賀 恩下」
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「手紙の内容は、将門本人が書いたようには思えない、立派な文面だと思います。ただ、内容はやっぱり将門っぽいと思います。特に6で、一国を討った罪は大きいと認めながらも、自分は天皇の子孫なのだから、日本の半分(たぶん関東のこと)を領有しても正統性がある、というところですね。それまでの経緯説明で、自分は悪くなく、すべて良兼や貞盛が仕掛けてきたことに応じただけ、という言い訳もしているので、全体的に言い訳をしている手紙のように感じますね。」
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「そうだな。だからこそ、俺はこの手紙は将門の気持ちを的確に表しているんじゃないか、と思うぜ。言い訳して自分は悪くない、すべて身を守るために仕方なくやってきたこと。国を奪うのは悪い事だけど、俺は天皇の子孫だからいいんじゃないか。武勇にも優れているし、と言いそうな気がするぜ、将門のような人間は。」
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「将門の反乱が京都に伝わると、京都はたちまち大混乱となった。未だかつて、自ら天皇(新皇)を名乗り、関東一円を勢力圏として反乱を起こした人物はいなかった。史上初の種類の反乱だな。しかも、反乱したのは藤原氏のような上級貴族や皇族ではない。地方の武士なわけだ。朝廷はあまりにも異例の事態に恐れおののき、大騒ぎになった。『将門記』によると
「京官大驚し、宮中騒動す」(書き下し文は中嶋繁雄著『戦国の雄と末裔たち』による)
朱雀天皇は10日の命を仏天に請い、名僧を七大寺に集めて祈祷させ、八大明神に捧げものをした。山の阿闍梨らは邪滅悪滅の修法を行った。7日間で焼いた芥子は7石以上になった、悪鬼の名を書いた札を大壇の中で焼く・・などなど、ありとあらゆるお祈りが行われた、と記録しているな。」
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「古代なので、お祈りはとても重要ですよね。現実的な対策としては、年が明けて940年(天慶3年)正月19日、参議の藤原忠文(この年67歳)を右衛門督(うえもんのかみ)兼征東大将軍に任命しています。藤原忠文はかなりの高齢者でしたが、武勇に優れた実直なタイプで、生ぬるい藤原貴族とは一線を画す存在だったようですね。2月8日、天皇から刀を受け取ると、自宅に帰らずにそのまま出発した、という話が残っています。当時、朝廷には常備軍などありませんので、出征を命じられた将軍は行く先々で兵を集めながら進む、というのが兵を集める方法だったそうです。」
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「一方、将門は正月中旬に5000の兵を率いて常陸に向かい、ここで捕らえらえた源扶と平貞盛の妻と会っている。この件は、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
那珂郡・久慈郡の藤原氏らは国境まで出迎え、将門らを宴会でもてなした。新皇が「掾の貞盛と為憲らの所在を申せ」というと、藤原氏らは「聞いたところによると、彼らは浮雲のようで、飛び去り、飛び来たり、所在はわかりません。」と答えた。それでも、10日ほど滞在して探索していると、陣頭の多治経明、坂上遂高(さかのうえかつたか)が吉田郡蒜間の江で、貞盛の妻、源扶の妻を捕らえて連れてきた。新皇はこれを聞き、女人が辱めを受けないように、と命令したが、既に兵卒らに凌辱された後だった。貞盛の妻は服をはぎ取られ裸にされており、涙は白粉を流し、胸中の炎は心の中の肝を貫いた。思いのほかの恥が、自分の恥となった。どうして人のせいにできようか、どうして天を恨むことができようか。生前に受ける恥は、自らに原因があるのだ。陣頭の武将が「貞盛の妻は顔立ちが美しく、妻に罪はありません。願わくば恩を与えて本拠に送り返してはいかがでしょうか。」と。新皇は「女人の流浪者は本拠地に返すのが法の通例。また、身寄りのない人、孤独な人に哀れみを与えるのは古帝の良い手本である。」として、衣服を与えて女の本心を確かめるために和歌を詠んだ。
「よそにても風の便りに吾ぞ問ふ 枝離たる花の宿(やどり)を」
貞盛の妻は温情ある処遇を受け、これに唱和して詠んだ。
「よそにても花の匂いひの散り来れば 我身わびしとおもほえぬかな」
(離れたところにいても、花の香りが散ってやってくるのだから、私の身の上がわびしいものとは思いません)
源扶の妻も、その身の不幸を恥じて詠んだ。
「花散りし我身もならず吹く風は 心もあはきものにざりける」
(花が散り我が身には実もならなくなったので、吹く風は心寂しく感じられます。)
このような歌を交わしているうちに、人々の心はなごみ、敵対心も弱まった。
という話だ。」
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「ここで『将門記』で和歌が登場する場面ですね。武勇の人・将門が和歌を詠むなんて、イメージに合わないという感じがします。それに、この手の記録の基本的な疑問なのですが、『将門記』の作者は、どうやってこの歌を知ったのか?というところが気になりますね。状況から考えると、その場に居合わせた人じゃないと和歌は聞けないと思います。あるいは、新皇が作った和歌とその返歌、というかんじで誰かが記録したものを見た、とかが考えられますが、私はこの和歌は作者の創作なんじゃないか、と思いますね。」
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「さて、将門の乱もいよいよ大詰めだな。次の話は940年2月の川口村の戦いだ。前段同様、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
将門は貞盛・為憲を探したが見つからなかったため、諸国の兵は帰した。残った兵は1000人足らずである。これを知った貞盛と押領使・藤原秀郷らは、4000余りの兵を率いて向かってきた。将門はたいへん驚いたが、直ちに国境を越えて下野方面に向かった。この時、将門の前の陣は敵の所在を知らなかったが、副将軍・玄茂の陣頭の多治経明、坂上遂高らの後陣は敵を発見した。高い山の上に登って北方を見ると、約4000の敵を見ることができた。経明らは一騎当千の武名を持っているため、見過ごすことはできず、将門に報告もせずに攻撃を仕掛けた。藤原秀郷は、老練の将である。たちまち、玄明の陣を崩してしまった。副将軍の陣は四散してしまった。貞盛・秀郷の軍が追撃するうちに、同日の未申(午後2〜4時の間)に川口村を襲撃した。将門は剣を振るい死力を尽くして戦った。貞盛は「私兵である賊軍は雲の上の雷のようで、公の従者は厠の虫のようだ。しかし、私兵に道理はなく、公の我が方には天の助けがある。3000の兵は逃げ帰ってはならない」と兵を励ました。未刻(午後2時頃)を過ぎて黄昏になり、みな奮戦した。桑の弓のように思い切り引き、よもぎの矢のようによく当たった。官兵はいつもより強く、私兵はいつもより弱かった。将門も馬を後ろに向けて楯を前にして防戦した。常陸の兵はあざけり笑って宿営に留まり、下総の兵は恥じながら去っていった。
という話だ。」
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「新皇即位して間もない将門の、まさかの手痛い敗戦ですね。『将門記』の記述を見ると、敗因は単独で攻撃してしまった多治経明と坂上遂高、そして副将軍であるはずの藤原玄茂が弱すぎた、というところでしょうか。突然、玄明の陣が崩された、と出てきますが、おそらく藤原玄明も藤原玄茂の部隊にいたんでしょうね。」
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「それに加え、相手が老練の藤原秀郷だったことも大きいだろうな。秀郷の生年ははっきりしないのだが、一説によると891年生まれだ。となると、この時点で49歳になっている。ベテランと言っていいだろう。
この戦闘に登場する川口村がどこなのかは、はっきり確定できていないが、茨城県結城郡石下町の水ノ口(海音寺潮五郎『悪人列伝』より)、あるいは茨城県千代田町のあたりではないか、と考えられている。」
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「秀郷がどのようにして多治、坂上の軍を破ったのか、個人的には気になりますが、『将門記』にはあまり詳しく書かれていませんね。攻撃を仕掛けたのが将門勢だったみたいなので、おそらくわざと逃げたように見せかけて後退してから、数の多さを利用して包囲殲滅したのかな、と思います。」
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「川口村の戦いで勝利した貞盛・秀郷の連合軍は、将門の本拠地に迫った。いよいよ最後の戦いとなる北山の戦いだ。前段同様、『将門記』に基づいて進めていくぜ。
貞盛は行く先々で甘言をもって群衆を集め、兵を倍増させて同年2月13日、強賊の地である下総の国境に着いた。将門は配下の兵を呼び寄せようと、兵を率いて幸嶋の広江に隠れた。しかし、貞盛らは新皇の妙の屋や与力らの家を焼き払い、家を失った人々は山へ逃げた。人々は、常陸国が貞盛によって荒らされたことよりも、将門のために夜が収まらないことを嘆いた。翌朝、将門は甲冑を着込んで身を隠す場所を考えた。しかし恒例の兵士8000余がまだ集まってきていないので、率いてきた400人余で幸嶋郡の北山を背にして陣を張って待ち構えた。貞盛・秀郷は子反のような鋭い陣構えを作り、策を練った。
14日未申(午後2〜4時の間)に戦いが始まった。将門は順風を得、貞盛・秀郷らは不幸にも風下であった。暴風は枝を揺らし、土塊を運ぶほどで、将門の南軍の楯は前へ倒され、貞盛ら北軍の楯は顔に吹き当てられた。このため、両軍は楯を捨てて合戦した。貞盛の中陣が討ちかかってきたので、将門の兵は馬を駆って戦い、その場で80余人を討ち取って撃退した。将門は勢いに乗って追撃に移ると、貞盛、秀郷、為憲らの従者2900人は逃げてしまい、残ったのは精兵300人だけであった。この後、風向きが変わって貞盛の順風になった。将門は本陣に帰る間に風下になった。貞盛・秀郷らは身命を捨てて戦った。将門は甲冑を着て、駿馬を駆って戦った。この時、天罰が起こり、馬は走るのをやめて人は戦う術を失った。将門は目に見えない神鏑に当たり、託鹿の野で戦った蚩尤のように地で滅んだ。
という話だ。」
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「将門の最期の戦いらしく、個人的な武勇を発揮していることが読み取れますね。やや物語風の話になっていますが、将門らは騎乗して貞盛軍を破ると、雑兵2900人は敗走。残った300の精兵と激戦を繰り広げた末、最後は天罰が下って、神鏑に当たって死ぬ、という劇的な最期になっていますね。」
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「将門の最期は神鏑、とだけ書いており、誰が射たのか、また将門のどこに命中したのかは『将門記』には書いていないな。矢を射たのは秀郷だとか、いや、貞盛だとか、また将門の額に命中したとか、いや、こめかみ、いや
眉間に当たったとか、もっと詳細を記述した書物もあるが、これらは全部後の時代に付け加えられた話だろう。『将門記』には、射手の名前や命中した部位には言及していない。」
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「個人的に興味深いのは、将門軍が馬に乗って貞盛の中陣を攻撃し、80余人を討ち取って撃破した、という部分ですね。純粋に考えると、将門とその郎党らが全員騎乗して突撃、いわゆる騎兵突撃で貞盛軍を破った、ととれます。この時代の日本で、騎兵部隊による突撃という戦法が取られたことはあまりないハズなので、気になる記述ですね。これが基になって「将門軍が強い理由は騎兵部隊の運用にあった」という説が登場しています。個人的には、眉唾なんですが、興味はありますね。数で負けている軍が、数に優る軍をどのようにして破ったのか、という部分に興味がありますね。
将門最後の戦いについては、河合敦氏の著書『歴史がわかる!100人日本史』も、上記の流れを簡潔にまとめて記述していますね。
「将門軍400は強風を利用して勝利は目前だったが、「将門の額に矢が当たり即死」」としています。」
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「ところで、最終決戦の場となった北山なんだが、これもどこなのかはハッキリ特定できていない。海音寺潮五郎氏は『悪人列伝』で「石井の北方にある山、ということで岩井町の北方20町あたりにある駒ばね(足へんに走)ではないか」と予想しているぜ。猿島郡は全体的に平坦で、その中でも「山」と名付けられているものは80尺(約24m)を超えず、小高い台地が「山」となっている。駒ばねは、高度60尺(約18m)の台地なのでここだろう。という理屈だ。」
平将門の乱 詳細篇その1へ
平将門の乱 詳細篇その2へ
平将門の乱・藤原純友の乱へ
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